2024年11月06日
尾灯
編集長
舟橋 良治
私の財布の中にはまだ、福沢諭吉が少ないながら収まっている。紙幣の「顔」が渋沢栄一と交代するだけに肩身が狭そう。その表情に寂しさも感じるが、「引退」する福沢や明治の啓蒙(けいもう)家らは大きな功績を残している。注目したいのは、外国語を翻訳する過程で生み出した「和製漢語」だ。こうした単語は「輸出」され、現代中国でも広く使われている。
福沢諭吉や啓蒙家の西周、政治家・思想家の森有礼らが明治初期、西洋の哲学や思想、政治社会制度などを研究・紹介した際、苦労して訳語を考え出した。新たな日本語として定着していった和製漢語には「政治」「経済」「社会」「文明」「科学」「歴史」「哲学」「自由」「教育」といった、現代社会で日常的に使われている単語が数多くある。
そんな先人の努力がなかったら今、どうなっているか。「エデュケーション、サイエンス、エコノミーに関するリバティーパーティーのポリシーにはフィロソフィーが欠けている。シビリゼーション、ヒストリーについてのインサイトもない」(=教育、科学、経済に関する自由党の政策には哲学が欠けている。文明、歴史についての見識もない)。こんな記述が新聞に載っているかもしれない。
特に近年、外来語を翻訳する努力がされているかどうか。あえて、今風な文章を創作してみた。「あのパティシエがフィーチャーしている、ストロベリーとハニーのマリアージュはユニークだ」(=あの洋菓子職人が推している、イチゴと蜂蜜の取り合わせは独創的だ)。英語と仏語を和訳せず、すべてカタカナ語で書いたのだが、文章の内容は別にして、あまり違和感はないという人もいるのでは。
こうした和製英語を含む外来語の安易な使用が続くと、カタカナ語とひらがなばかりになってしまいかねない。最近はAI(人工知能)やITなどアルファベット表記まで日本語になりつつあるが、福沢諭吉や西周らならば、新たな和製漢語を世に出すに違いない。大いに嘆いていることだろう。
舟橋 良治