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自立した市民の権限強化を目指したい

=監視社会の到来を阻むために=

2020年05月26日

新型ウイルス

主席研究員
米谷 仁

 感染症のパンデミック(世界的な流行)には、時代や社会を一変させる力がある。

 中世の欧州を襲ったペストによって、封建制度は崩壊し、カトリック教会の権威も失墜した。その後の宗教改革やルネサンスをもたらし、近代社会が発展する礎(いしずえ)となった。今回の新型コロナウイルスも、歴史や社会の転換点になるのではないか。どのようなパラダイム変化が実際に起こるか分からないが、わたしたちは自立した市民の権限が強化される社会を目指すべきだと思う。

 歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏も市民の自立に注目する。同氏は日本経済新聞に「コロナ後の世界に警告」と題して寄稿、新型コロナウイルスによる危機の中でわたしたちは「『全体主義的な監視』と『市民の権限強化』のどちらを選ぶのか」の選択に直面していると指摘した(2020年3月30日、電子版)。

 なぜなら、新型ウイルス感染拡大の阻止を大義に、世界各国が人々の動きを観察するツールとして市民のスマホ情報を当たり前のように収集・活用しているからだ。中国政府は日ごろ認証機能を持つ監視カメラを数億台も配置、市民の監視を続けている。今回は、体温などの健康状態を監視項目に追加した。それによって、感染が疑われる人物を特定するだけでなく、その人物と接触した人も特定することで、新型ウイルスを徹底的に封じ込めようというのだ。

写真北京故宮博物館(イメージ写真)
(写真)武重 直人

 これに対し、ハラリ氏は「私が何かのビデオクリップを視聴している際の体温や血圧、心拍数を計測できるようになれば、私が何で笑い、泣き、心の底から怒りを感じたかまでわかるようになる」と警告を発する。

 もし、国家が市民の心の中まで把握するならば、恐ろしい社会である。そうした「全体主義的な監視」社会を招かないために、わたしたちは社会のあり方に関心と責任感を持ち、もう1つの選択肢である「市民の権限強化」社会を追求したい。一人ひとりが自立した市民として努力して情報を集め、自分で判断し、行動する者となりたい。

 ハラリ氏は朝日新聞(2020年4月15日付朝刊)のインタビューに応じ、次のように論じている。「情報を得て自発的に行動できる人間は、警察の取り締まりを受けて動く無知な人間に比べて危機にうまく対処できます。数百万人に手洗いを徹底させたい場合、人々に信頼できる情報を与えて教育する方が、すべてのトイレに警察官とカメラを配置するより簡単でしょう」―

 ハラリ氏が求める「自発的な行動」すなわち自立は、筆者にとって30年来のテーマである。20歳の冬に聴いた、故日高六郎・東京大学新聞研究所教授の講演がきっかけだ。詳しい内容は覚えていないが、建国記念日についての話だったと思う。「わたしは建国記念の日のあり方についてどう考えてほしいとは言わない。大事なことは、一人ひとりが自分の頭で考えること」―。その言葉が胸に突き刺さり、翌日ふと気が付くと、「自立、自立、もう一歩自立!」と心の中でつぶやいていた。

 それから30数年―。全体主義的な監視社会ではなく、自立した市民の権限が強化される社会を目指し、一層努力をしなければならないと思う。同時に、その難しさも感じる。その大きな理由が社会のデジタル化である。一人の人間がネット上にあふれる膨大な情報の中から、真実を見極めどう考えどう行動すべきかを判断する。それが非常に難しくなっているのだ。

 とりわけ、何が真実で何がフェイクなのか見分けがつかない。思い出すのは20数年前、北京の日本大使館に勤務していた時のこと。中国側カウンターパートが日中代表団の集合写真を見ながら、「中国の代表のほうが、背が低く見える。後で修正しなきゃ」と笑っていたのだ。それは冗談ではなく、実際に修正されて"公式写真"に。以来、写真や動画を「修正されているかも」と疑うようになった。

 フェイクにだまされないためには、例えば自分に関する情報を自分で管理できるシステムが必要である。ネット通販会社から、「あなたが関心を持たれている分野でこんな本も出ています!」というメールが毎週のように届く。わたしの関心や嗜好に関する情報は、この会社が持っているだけなのか、ほかのだれかも持っているのか...。わたしには知り得る権限がない。これでは市民の自立は危うい。

 また、自立のためには、他人との信頼できるつながりが必要だと思う。デジタル化で複雑・高度化する社会において、一人の市民が情報の真偽を見極め、判断に必要な情報に至るまでの努力は困難を極める。つい投げ出したくなるが、それでは自立は望むべくもない。そんな時助けてくれるのは、真実を求める自立した仲間しかいない。こうした仲間を増やしていければ、全体主義的な監視社会の到来を阻止できるのではないかと思う。

米谷 仁

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