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インドネシアの賃上げ抑制でデモ先鋭化

=苦闘を続ける民主主義の現実=

2019年12月10日

中国・アジア

研究員
板倉 嘉廣

 インドネシアは毎年10〜12月になると、労働者によるデモが激しくなる。翌年の賃上げをめぐって街頭でシュプレヒコールを上げているのだ。

 その声が一段と大きくなったのは2015年である。そのきっかけは、ジョコ政権が導入した最低賃金の新ルールである。それまで政府は各州政府に対し、「最低賃金の前年比上昇率が実質GDP成長率を上回らない」よう勧告していた。だが実際には、政府の勧告よりも州政府、労働組合、経営者の代表で構成される賃金審議会に実質的な決定権があった。賃金審議会では労働組合の主張が通ることが多かったので、最低賃金は成長率を超えてぐんぐん上昇。勧告は形骸化した。ユドヨノ前政権下の2010年代前半、最低賃金の上昇率が40%超という年もあったほどだ。

 ところが、前述した新ルールにより、「最低賃金の前年比上昇率=実質GDP成長率+物価上昇率≒名目成長率」に改められた。一見すると、労働者にとっては物価上昇率が加算される分、有利になったように思われる。ところが、そうは問屋が卸さない。新ルール導入後の最低賃金上昇率は10%台前半から8%台にまで低下したのだ。

 なぜならジョコ政権が労働組合を重視するよりも、賃金計算の単純化による企業活動の効率化を優先したからだ。従来はどのように決定されるか分からない賃金審議会の議論を待つ必要があり、企業が翌年度の事業計画を立案する際に支障を来たしていた。

インドネシアの最低賃金上昇率

図表(出所)ジェトロの資料を基に作成
(注)2016~2020年はインドネシア労働省が設定した全国の基準上昇率。2015年以前は当時、全国基準値とされていたジャカルタ特別州の最低賃金を基に計算。

 ルールに基づくとはいえ、かつて二ケタ賃上げが当たり前だった労働者にとって、8%台は受け入れ難い数字。だからデモは先鋭化し、張り上げる声も大きくなる一方なのだ。

 アジア経済専門通信社「NNA ASIA」によると、新ルールで算出された2020年賃上げ率(8.51%)に納得できない労働者が2019年10月末、首都ジャカルタでインドネシア労働組合総連合の呼び掛けに応じ、前年比15%増という大幅な賃上げを要求してデモを敢行したという。

 インドネシアは1998年のスハルト政権崩壊後、民主化が進む過程で集会・結社の自由が認められ、労働運動が盛んなお国柄。昨今はジャカルタ中心部だけでなく、郊外の工業団地でも活動家が労働運動を展開。日系企業も対応に苦慮している。かつて筆者が現地で見聞きした限りでは、団地内で企業ごとに賃金交渉が行われる中、妥結が遅れている企業の労働者を活動家が煽り、デモが行われるケースが多かった。

写真工業団地での賃金交渉
(写真)筆者

 一口にデモといっても、その目的は賃上げだけではない。企業に福利厚生を求めたり、政治家を批判したりと動機はさまざま。特に政治家の汚職や失言に対しては厳しい反応になり、10万人規模が参加するデモも少なくない。

 1968年から30年にわたり独裁制を敷いたスハルト政権は、インフラ整備などで高度成長を実現する半面、労働運動を徹底的に抑え込んだ。当時の労働組合はスハルトを支える政党が指導する「御用組合」。まれに暴動やデモが発生すると、政権は軍を動員して鎮圧。普段から労働者の行動を監視するため、秘密警察も操っていたという。

 スハルト政権は開発独裁の典型として経済成長を実現したが、最後は腐敗によってデモで辞任を余儀なくされた。後継のハビビ政権以降、さまざまな政治改革が実現し、2004年には大統領が初めて直接選挙で選出されるようになった。労働法も改定が繰り返され、労働者の権利も法的に整備されていく。

 しかし、政権のデモ容認がいつまでも続くとは限らない。インドネシアは多数の少数民族を抱えながら、約1万5000を数える有人島と日本の約5倍の面積を持つ国家。それを治めるのは至難の業であり、為政者が独裁体制の誘惑にかられても不思議ではない。実際、2019年9月17日には2期目が始まったばかりのジョコ政権下で、汚職撲滅委員会(=警察や検察から独立した専門捜査機関)の骨抜き法が成立した。元々、庶民派かつ改革派とされてきたジョコ大統領が、権威主義的な方向へ微妙に舵を切ったわけだ。それにスハルト政権時のような独裁の影を感じる国民も少なくない。このため、賃上げに関連した労働者デモだけでなく、大統領権限の強化に反対する学生デモも発生。警察が実弾を発砲し、犠牲者も出ている。

 苦闘を続けるインドネシアの民主主義。政治や経済に対する国民の不満が高まる中、これからも力ではなく話し合いで解決の糸口を見いだせるか。年末が近づくと、駐在時代に何度も聞いていたデモ隊のシュプレヒコールを思い出す。

スハルト政権後の歴代政権の動き

図表(出所)筆者

板倉 嘉廣

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