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チンギス・ハーンの末裔は今...モンゴル訪問記

2016年10月01日

中国・アジア

HeadLine 編集長
中野 哲也

 モンゴルの首都ウランバートルからバスに乗り、ガタガタ道を東に進んでいく。冬場はマイナス30度にもなるため、未舗装のほうがスリップしにくいらしい。郊外に出ると信号や渋滞がないのに、バスは時々停止する。ヒツジやヤギの横断を優先するからだ。

 途中の草原でヤクの群れと遭遇した。人間が命じなくても、一団は草を食みながら整然と進んでいく。高原の川では、馬が連れ立って水を飲みに来た。満足したら牧場に帰っていく。動物が大自然の秩序を自律的に維持する一方で、人間による干渉は最小限。だから、時間がゆっくりと流れていく...

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 ひたすら草原が続く中で、たまに「白い円盤」のような物体を見つける。これが「ゲル」と呼ばれる、遊牧民(ノマド)が発明した移動式住居である。円型の大部屋に家族で住み、肩を寄せ合いながら暮らしている。天井や壁には羊毛で作ったフエルトが使われ、断熱性能に優れるから、室内は夏涼しくて冬暖かい。

 だが最近は、テクノロジーが大草原にも入り込んできた。ウランバートル市内の市場(ザハ)で並んでいたソーラー発電パネルと衛星放送受信用アンテナは、遊牧民がセットで買っていくという。

P5_モンゴル_1_500.jpg保養地には観光用ゲルが立ち並ぶ

201610_モンゴル_5.jpg観光用ゲルの外観と内部

P5_モンゴル_4_500.jpg遊牧民に人気のソーラーパネルと衛星放送アンテナ


騎馬隊と情報戦で世界征服したチンギス・ハーン

 1時間半ほどバスに揺られていると突然、キラキラと銀色に輝く巨大な彫像が出現した。高さ40メートルに達する、チンギス・ハーンの騎馬像である。13世紀初め、彼は高原に点在していたすべての遊牧民を傘下に収める。それにとどまらず、彼と後継者のフビライらが中国や中央アジア、欧州にまで侵攻し、モンゴル帝国を樹立した。最盛期には地球上の人口の半分と、陸地面積の四分の一を征服したという。なお13世紀後半、日本に対しても九州に二度襲来したが、防風雨などの影響でいずれも失敗に終わった。


P5_モンゴル_5_500.jpg大草原に出現した巨大なチンギス・ハーン像



P5_モンゴル_6_500.jpgモンゴル帝国を支えた騎馬軍団の像



 チンギス・ハーンは軍事の天才だった。騎馬兵は7~8頭の馬を与えられ、疲弊した馬を捨てては新しい馬に乗り換え、これを繰り返した。それによってモンゴル帝国の軍団は驚異的な進軍速度を実現し、中世欧州の軍隊はスピード面で歯が立たなかったという。モンゴル軍は中軍、右翼、左翼という三つの軍団に分かれていた。それぞれが先鋒・中堅・後方という三つの部隊を持ち、機動的で分厚い攻撃を展開した。

 高度な軍事技術だけでなく、巧みな情報戦略によってチンギス・ハーンは版図を急激に拡大する。例えば、制圧した民族でも優秀な人材は積極的に登用し、各地域からの情報収集に力を入れた。ダイバーシティ(多様性)の重要性を認識していたのだろう。

 また、非常に優れた駅伝制度も確立する。主要街道の途中に駅を設け、人と馬を用意したのである。モンゴル帝国が発した命令書は数カ国語に翻訳された上で、各駅をリレーしながら、領土内の隅々まで届けられた。20世紀にシベリア鉄道が開通するまで約800年間、この駅伝制度がユーラシア大陸で最速の情報伝達システムだった。

 騎馬軍団に象徴されるハードパワーに加えて、情報というソフトパワーに着目したチンギス・ハーン。地球規模で衝撃を与え、世界史上に名を残す。だからモンゴル国民にとっては、永遠のヒーローなのである。ウランバートル中心部の広場にも、チンギス・ハーンの像が座り、訪れる人の波が絶えない。




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中露両国に挟まれて翻弄されたモンゴル 

 モンゴル帝国が17世紀に滅亡した後、この国はロシアと中国に挟まれ、歴史の荒波に翻弄(ほんろう)されていく。18世紀に清(今の中国)の支配下に入ったが、1911年に清で辛亥革命が起こったのを契機に、モンゴルは独立を宣言する。

 1917年にロシア革命が勃発すると、その影響でモンゴルも1924年に社会主義体制の人民共和国に移行した。1939年、モンゴルと満州国(日本が支配した今の中国東北部)の国境で、モンゴル軍・ソ連軍が満州国軍・日本軍と軍事衝突。このノモンハン事件で日本側は敗北を喫し、太平洋戦争に突入していく。

P6_モンゴル_3_500.jpgソ連との蜜月時代に建てた記念碑(ザイサン・トルゴイ)


 第二次世界大戦後、モンゴルはソ連の衛星国として、社会主義体制下で近代化が進められた。ウランバートルはモスクワと北京を結ぶ国際鉄道の中継駅としても重要視される。

 しかし、1989年にベルリンの壁が崩壊すると、モンゴルも民主化の津波に呑み込まれる。1992年には社会主義を放棄し、民主化と市場経済の確立を目指して歩み始めた。社会主義時代に弾圧を受けたチベット仏教のガンダン寺も、今は国内外から多数の参拝者や観光客を集める。訪れると、高さ25メートルの観音像が厳かなオーラを放っていた。


201610_モンゴル_8.jpgウランバートル駅と社会主義時代のSL

201610_モンゴル_9.jpgガンダン寺と観音像



 ところで、モンゴル料理は羊肉が主体だが、意外なほど臭味がなくて食べやすい。草原では野菜をあまり食べない分、ベリーやスグリなどの木の実で栄養分を補う。大自然がサプリメントを提供してくれるわけだ。男の子は3~4歳から乗馬を始め、成人までに羊一頭の解体ができて一人前とされる。人々は酒を愛し、馬頭琴(ばとうきん)を奏でる。大きな声で歌い、時には激しく舞う。

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P7_モンゴル_5差替え.jpg3~4歳で乗馬を習う

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資源価格下落で経済は危機的状況に

 モンゴルは銅や亜鉛など豊富な鉱物資源に恵まれている。その相場上昇に伴い、モンゴルの実質成長率は2004年に二ケタ台に乗り、2007年には20.6%を記録。ところが、翌年のリーマン・ショックで銅価格などが暴落すると、マイナス成長に陥ってしまう。その後の市況回復で2011年には17.5%まで回復したものの、再び資源価格が下落すると急ブレーキが掛かる。

 国際通貨基金(IMF)はモンゴルの2016年の成長率がわずか0.4%にとどまると予測する。外貨準備高も減り続け、危機的な状況に直面している。資源頼みの一本足経済からの脱却が、この国にとって喫緊の課題である。

 一方、モンゴルの国内政治も経済同様、アップダウンを繰り返してきた。新憲法下で一院制の国家大会議(定員76人、任期4年)が創設され、この多数を制する政党が組閣する。実は市場経済へ移行した1992年以降、過去7回行われた選挙ですべて与党が敗北を喫し、毎回政権交代が起こっている。このため、政策の継続性に乏しく、経済が不安定になりやすいと指摘される。

 今年6月の選挙でも野党の人民党が地滑り的勝利を収め、民主党から政権を奪還した。筆者は先に日本危機管理学会の訪蒙団の一員として、政府宮殿で人民党のドルゴルスレン・スミヤバザル議員と会見した。同議員はモンゴル日本議員連盟の会長を務め、元横綱・朝青龍のドルゴルスレン・ダグワドルジ氏の兄である。

 ドルゴルスレン議員は「すべての政策を掘り返す。政治と経済はコインの表裏の関係にある」と述べ、今回の政権交代によって経済政策を抜本的に見直す考えを表明した。国内経済の現状については「危機に陥っている」と述べ、資源価格の乱高下をその主因に挙げた。このため、モンゴルが輸出する資源については国際市場で一定の価格決定権を握れるようにしたいとの意向も示した。

 また、同議員は危機的な経済の再建や遅れているインフラ整備には、海外からの投資が不可欠だと強調した。そのために、外国の銀行や証券会社などに国内市場を開放していく考えも示唆した。さらに、「日本とモンゴルの関係が強くなってほしい」と強調し、日本の経済協力や直接投資の拡大に大きな期待を示した。

P8_モンゴル_1_500.jpg国家大会議のドルゴルスレン議員

P8_モンゴル_2_500.jpg政府宮殿


豪華マンションの裏に煙突のゲル地区

 しかし、ウランバートルの中心部では高層マンション・オフィスビルの建設ラッシュが続いており、経済危機という印象は受けない。バブルが崩壊する前の宴(うたげ)でなければよいのだが...

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 ウランバートルの人口は130万人を超え、総人口の4割以上を占める。東京の一極集中どころではなく、慢性的な交通渋滞と深刻な大気汚染が発生している。地方から流れ込んでくる人の多くは、遊牧民と同じくゲルを市街地に建てる。中心部の豪華なマンションと煙突が並ぶゲル地区の対比は、市場経済移行後に急拡大した格差の象徴に見えた。

 ゲル地区を訪れると、「白い円盤」が密集していた。上下水道は整備されておらず、水は井戸から汲む。電気は通じているが、暖房は伝統的な薪ストーブ。このため、ゲルの煙突から煤煙が排出され、大気汚染の元凶になっている。

 こうした現状にモンゴル政府も危機感を強める。政府宮殿で国家開発庁のバンズラガチャ・バイアルサイハン長官に取材すると、「ウランバートル市内で下水処理がなされているのはマンションやアパートだけ。このため、汚水による土壌汚染が深刻化している」―。また、ゲルからの煤煙も憂慮しており、「火力発電所からスチーム(蒸気)を供給するようにしたい」という。



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目指せ!「小さくてもキラリと光る国」

 ウランバートルの中心部にあるモンゴル国立大学。ジャーナリズム論の授業をのぞくと、学生が先生の話に熱心に耳を傾け、質問を浴びせていた。その瞳はキラキラと輝き、スマートフォンをいじっている者はいない。エリートを養成する名門大学の授業とはいえ、日本の大学でこうした光景をどれぐらい見られるだろうか。

P9_モンゴル_3_500.jpgモンゴル国立大学


 次に、モンゴル社会思想史の授業には飛び入りで参加させてもらい、二年生の男女に日本に対するイメージを質問した。すると、次々に手が挙がる。「先進国」「ファッションが素敵」「京都。伝統を守っている」「几帳面な国民性」「若者がアルバイトをしている」「親切。東京のデパートで道を聞くと、言葉が通じないのに目的地まで連れて行ってくれた」...。学生の日本に対する知識や関心は想像以上。チンギス・ハーンの末裔(まつえい)は頼もしく見えた。

 モンゴルの国土は日本の4倍もあるのに、300万人余しか住んでいない。しかも、半分近くが首都に集中しているから、人の居ない部分が圧倒的に大きい。だが発想を転換すれば、日本の北海道と同様、クルマの自動運転やドローン(無人飛行機)の適地になるかもしれない。

 手付かずの貴重な大自然が残され、来年5月にはウランバートルに新国際空港が開業する予定。外国人旅行客は増えるだろうし、カシミヤ製品などの販売拡大も期待できよう。若者の瞳が輝き続ければ、モンゴルは潜在能力を発揮して「小さくてもキラリと光る国」になるのではないかと思う。

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(写真)筆者 PENTAX K-S2 使用

中野 哲也

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※この記事は、2016年10月1日に発行されたHeadlineに掲載されたものを、個別に記事として掲載しています。

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