2016年10月26日
所長の眼
所長
神津 多可思
このところ「包括的」資本主義という言葉をしばしば目にする。この「包括的」というのは英語の"inclusive"の訳である。要するに、株主の利益を重視する資本主義の中で、貧富の差が開いて貧困の問題を放置できなくなってきたので、そういう層にも配慮した経済メカニズムを考えようではないかという発想のようだ。それまで考えに入れてこなかったことを視野に入れるので、inclusiveという言葉が出てくるわけだ。
もちろん、論者によってまだ重点の置き方が違うので、一概に議論することはできない。しかし、先のグローバル金融危機に典型的なように、利益追求型の資本主義が行き過ぎると、結局バブルが起こり、それが破裂して経済全体が混乱する。その一方で、バブルの過程で豊かになった人はごく一部であり、中産階級以下は経済拡大の恩恵にあずかれていない。そういう米国でよく聞かれる問題意識の下で、多くの弱者を生む資本主義ではなく、もっと広範にわたる人々が安定的に豊かになる道はないのかということが模索されているのだろう。
経済学が往々にして語るのは、所得分配の問題は別にして、市場原理を最大限活用することでマクロ経済の成長率は一番高くなるというようなことである。しかし、もし教条主義的な資本主義の下で、資本主義の原理そのものが否定されるようなことになれば、その市場原理の良いところも生かせない。
類似の議論がグローバル化についても成立する。ここでも経済学はヒト・モノ・カネの国境を越えた自由な移動のメリットを主張する。しかし、1990年代以降のグローバル化の中で、恩恵を受けた人と受けていない人がやはり出てきており、ここへ来てとみにグローバル化に否定的な意見が強くなっているような印象がある。
もちろん日本でも、伝統的な産業がグローバル化の中で大きな打撃を受けてきた。欧州ではヒトの自由な移動、すなわち移民をめぐって、それを排斥しようとする勢力が強くなっている。英国の国民投票で欧州連合(EU)離脱派が多数を占めたのもその一例だろう。来月8日投票の米国大統領選挙でも、民主、共和両党の候補ともに環太平洋経済連携協定(TPP)に反対の立場をとらなくてはいけなくなっている。
日本も含め、1990年代以降の早急なグローバル化に疲弊している面は確かにある。今は、それこそ「包括的」資本主義と併せ、バランスのとれた「包括的」グローバル化を考える時期なのかもしれない。人の気持ちは意外にゆっくりにしか変わらない。そのスピードに合わせた市場経済やグローバル化を考えてみることにも意味があるのではないだろうか。とりあえず日本も、EU離脱を決めた英国や"inclusive"をより考えざるを得ない米国と一緒に、包括的なグローバル化のコンセプトを模索してみてはどうだろうか。
神津 多可思