2017年06月08日
所長の眼
所長
神津 多可思
また人工知能(AI)がブームとなっている。今回は、深層学習と呼ばれるコンピューターが自動的に学習するメカニズムが確立されたところから始まったとされる。現在のコンピューターの能力向上スピードを前提にすると、AIの能力が人間の能力を超える日もそう遠い未来ではない。それは技術的特異点(シンギュラリティ)と呼ばれ、2045年にもやってくると言われている。
もう引退するらしいが、アルファ碁と呼ばれるAIに対し、ついに最も強いとされる人間の棋士も勝てなくなったという報道が盛んになされた。しかしよく考えてみると、機械に人間が勝てなくなったのはこれが初めてではない。最初の産業革命で蒸気機関が発明されてから、短時間で大量物資を運ぶ作業について、人間は全く機械に勝てなくなった。こうして文章を書くことも、加齢に伴って漢字をなかなか思い出せなくても、ワープロソフトを使っていれば大丈夫。したがって私の脳は実は機械に勝てていないのである。
こうした機械の進歩に対し、仕事が奪われるという恐怖感は歴史上これまでも常にあった。実際、かつて力仕事に従事していた人は、内燃機関の進歩でどんどん職を失った。昔、自動車運転免許の更新の際には代書屋さんがどこにでもいたが、ワープロが普及した今ではとんと見かけない。これから30年後にAIの能力が人間を超えるなら、今ある仕事の多くはなくなってしまうと脅威を感じるのも当然だ。
しかし、今から30年前、1980年代に今日の日本を予測できただろうか。社会の変化のスピードが速くなっていることを考えれば、今から30年後の予測はもっと困難だろう。2045年にAIと人間がどういう社会を創っているかは、そもそも分からないのである。そして、シンギュラリティを実現するまでには、まだまだ相当の技術進歩が必要だ。今日既に存在するAIは特化型と呼ばれ、シンギュラリティで想定されている汎用型との間には長い距離がある。それを縮めるために人間がやらなくてはいけない仕事がたくさんある。
例えば、AI自体はリアリティをそのまま理解できるわけではない。文字や音、画像、さらに音や画像の時間を通じた変化を、AIに分かるよう翻訳してやらなくてはいけない。デジタル化はそのプロセスだ。文字情報のデジタル化はかなり進んだが、残りの情報のデジタル化についてはまだまだ技術の革新と、その成果の製品化・サービス化が必要だ。そしてそのための作業は私たちの手で行わなければならない。
それら全てに成功した後、本当にシンギュラリティを迎えたらどうなるか。心配はなお残るだろう。しかし、AIは実は碁をやりたいわけではない。碁ではAIに人間が勝てないことが分かっても、それでも碁が好きな人は碁をやる。人間の代わりにAIとそれに繋がったロボットが全てをやってくれるならば、私たちは21世紀のエデンの園に暮らせるかもしれない。好きな碁を日がな打って暮らすことも夢ではないかもしれない。
それでも残る心配事は、そのエデンの園への入場料を皆が払うことができるかだ。しかし、それは所得分配、すなわち技術進歩の恩恵を社会全体にどう行き渡らせるかという問題であって、技術進歩そのものの問題ではないように思われる。民主主義の手続きを通じてこの所得分配の問題を解決することが難しそうだから、そういう問題を生むかもしれない技術進歩を否定するというのも一つの立論だろう。しかしそれは、人間が不本意な労働から解放され、本当に楽しめることに専念できるチャンスの芽を摘むことになるかもしれない。
他方、産業革命以降、力仕事の職業が激減したように、AIの進歩によりこれまで賃金を得ることができた仕事がなくなるのもまた冷徹な事実だ。これからの新しい技術に合わせ、働く人間もこれまでとは違う技能を身に着け、磨かなければならない。個人的には高齢化の中で誠に難儀に感じるが、その訓練の過程もまたAIが助けてくれるものであるはずだ。
神津 多可思