2017年07月12日
所長の眼
所長
神津 多可思
2016年度の国の税収は7年振りに前年度を下回ったとのことだ。+1%程度の実質経済成長が続き、デフレではなくなっても必ずしも税収が増えるとは限らないということだ。これからの日本経済の成長率がさらに高まるかと問われて、自信を持って「イエス」と答えられるエコノミストはそんなにいないだろう。他方、高齢化はさらに進み、人口は減少していく。年金や医療保険、介護保険といった社会保障関連の支出はそれに伴ってさらに増加していく。
2017年度の国の当初予算では、歳入のうち税金で賄われるのは全体の60%にも満たない。何らかの制度変更をしなくても、今後、税収が全く増えないわけではないだろう。だが、税収と歳出の現在の不均衡を出発点に、今後の高齢化に伴う社会保障関連支出の増加を本当に賄っていけるか、不安に思う人は多いはずだ。
それでも、現在は大量の国債を発行してうまく凌げているのだから、何も直ちに増税や社会保障関連支出の削減といった制度的変更を行わなくても良いだろうとも思いがちだ。そもそも、私たちは未来のことをそんなに合理的には予想できない。今日、こうした財政事情になり得ることは何十年も前から分かっていた。にもかかわらず、何の手立ても打ってこなかった事実からしても、それは分かるだろう。
しかしどんな主体でも、例え国であっても、収入以上の支出を永久に続けることはできない。それもまた自明ではないだろうか。だとすると、今のような財政赤字をずっと続けていくと、未来のどこかの時点でうまくいかなくなる。そのことに対して、今を生きている私たちは無責任になっているかもしれない。
私たちは将来のことを必ずしも合理的に考えられない。一方、2025年には有権者の6割が50歳以上となる高齢化社会が目前に迫る。日本の民主主義における多数決による意思決定で、これから生まれてくる子供たちにとって良い社会にしていくことができるだろうか。
そういう問題意識で集まった若い研究者の勉強会に参加する機会があり、自分も随分と考えさせられた。未来への責任を今、どういう形で果たすべきか。増えるばかりの足元の財政赤字はそういう問題も提起している。(上述の勉強会の成果は、加藤創太・小林慶一郎編著「財政と民主主義」(日本経済新聞出版社)としてまとめられおり、筆者も一章を呈した)
(写真)中野哲也
神津 多可思