2017年11月01日
所長の眼
所長
神津 多可思
ベルリンの壁が崩壊したのは1989年11月9日。28年も前のことだから、一世代が過ぎたことになる。今振り返ってみれば、壁崩壊後のグローバル化第2世代は、それ以前のものとは一線を画するものであった。
すなわち、旧ソ連およびその影響下にあった国々、さらに中国を含め地球上のほぼ全ての国が一つのマーケットで競争するようになった。これは人類の歴史で初めてのことだ。欧州にも統一通貨ユーロが登場し、経済統合の度合いはますます高まった。こうした中で進んだ日本経済のグローバル化もまた、それ以前とは違ったものとなった。
戦後の日本経済は国内で生産したモノを海外に輸出するというパターンで成長を続けた。多くの製造業のビジネスモデルや組織の設計もそういうパターンに適したものへと進化してきた。ところが、ベルリンの壁崩壊後は、先進国と新興国が入り交じった競争の中で、日本企業の生産拠点が国内だけでなく世界中に求められるようになった。
その上、先進国におけるもの造りは、単により良い製品をより安くというだけでは駄目になり、エッジデバイス(異なるネットワーク間の通信を可能にする機器類)にサービスを載せる方向にどんどん変わってきた。国境を越えて直接投資が自由にできる環境の下では、もの造りだけならば、賃金がより安い国の生産に収益性の面で敵わないからだ。
こうした展開の中で、グローバルに活動しようとする日本の製造業は、海外での生産過程の管理を迫られ、さらにサービス販売をも視野に入れなくてはならなくなった。言葉や文化、風習の違う海外での生産過程の管理は国内のそれとはケタ違いに難しい。また、単に製品の使い方を説明するだけではなく、サービスも展開するとなると、相対でより丁寧なやり取りが大事になる。
どちらにおいても、世界の人々との間で誤解を生まないコミュニケーションが必要不可欠だ。かつそれも、サプライチェーンの様々な部分でグローバルに繋がっていくのだから、一部の海外要員に任せていれば済むというものではない。かなり広範にかつ重層的にコミュニケートすることが組織に求められるのだ。
かくして、デファクト共通語である英語は、学ぶものではなく使うものとなる。日本でも他の国でも、良い人もいれば悪い人もいる。それが人の世だ。その中でビジネスをしていくのだから、共通の言葉でそして相手の顔を見ながら、ビジネスの山や谷を乗り越えていくほかない。さらに言えば、先進国の企業にとっては、世界中の大いなる多様性をいかにうまく組み合わせるかが、ますますビジネスの勝敗を決することになるはずだ。
これまでのグローバル化第2世代の反動によって、様々な内向きの動きも出ているが、だからといってビジネスの全てを国内に回帰させることはもはや現実的ではない。世界で起きていることが他人事ではなく、自分事であるとどこまで感じられるか。そして世界の人々と誤解なく、どうコミュニケートできるか。日本経済の、そして私たち自身のグローバル化は第3世代というべき、新たな次元に入ろうとしている。
神津 多可思