Main content

民主主義とリンカーンを日本に伝えた「アメリカ彦蔵」

2017年03月17日

内外政治経済

研究員
平林 佑太

 法要のため墓参に向かった。東京メトロ銀座線外苑前駅で下車してから歩くこと約10分、目的地である「青山霊園」にたどり着いた。

 青山霊園は1872年(明治5年)、美濃国郡上藩(現在の岐阜県郡上市)の藩主であった旧青山家の下屋敷跡に開設された。東京ドーム5個分以上の広さを誇り、埋葬体数は優に10万を超える一大霊園だ。

 墓参を終えた帰途、左手の案内板に書かれたある人名に目が留まった。「アメリカ彦蔵」―。一瞬、お笑い芸人かと思わせるようなユニークな名前が気になり、案内板を読み進めると、ここがどうやら霊園の一角に設けられた外人墓地であることが分かった。

 「アメリカ彦蔵」(本名:浜田彦蔵)は、幕末期の1837年播磨(現在の兵庫県)の漁師の家に生まれた。幼い頃に両親を亡くした彦蔵は、13歳のとき親戚に連れられて船で江戸見物に向かう途中、遭難してしまう。運よく米国の商船に救出された彦蔵が向かった先が、サンフランシスコだった。彦蔵、当然帰国を考えたが、米国が当時鎖国状態にあった日本との外交カードの一枚として漂流民を使おうとしていたことを知り、一旦帰国を断念した。

 米国に残った彦蔵は、その後開国した日本へ帰国するチャンスを得た。しかし、当時の日本では激しいキリシタン弾圧の嵐が吹き荒れていたため、既に洗礼を受けていた彦蔵は、米国籍を取得することにより、米国人として帰国を果たした。

 帰国後、彦蔵は米国領事館で通訳として働く中で、近代文明が開花していた西洋と比較し、後れを取っていた日本の発展に貢献したいと思うようになる。しかし、日本人でありながらも米国人として振舞う彦蔵は、尊皇攘夷を掲げる浪士たちから命を狙われることとなり、やむなく米国へ引き返すこととなった。

 米国に戻った彦蔵は、当時の第16代大統領エイブラハム・リンカーンに謁見する機会を得たことが、後の生き方を大きく変える転機となる。リンカーン大統領から直接説かれた民主主義の理念を、是非日本に持ち帰って啓蒙したい―

 日本へ再帰国した彦蔵は、外国人居住地で、リンカーン大統領のゲティスバーグでの名演説「人民の、人民による、人民のための政治」への反響を伝える米国紙を目にして衝撃を受けた。米国在住時に薫陶をうけたリンカーン大統領のスピーチが、米国民を突き動かしていたからだ。

 当時の日本は、言論の自由が抑圧されていた幕末時代。その中で、彦蔵は「日本人の目を海外に向けなければ!」という信念のもと、1864年「新聞誌」(翌年「海外新聞」へ改題)という手書きの新聞を発刊させ、スポンサーを募って無料で配布した。

 彦蔵の発行した無料新聞は、スポンサー不足から2年ほどで廃刊に追い込まれてしまう。しかし、新聞廃刊後も維新の志士である、伊藤博文や木戸孝允らと交流を持ち、「人民の、人民による、人民のための政治」に象徴される民主主義を伝えた。

 日本国籍でなかったこともあり、今もなお青山霊園外人墓地に眠る「アメリカ彦蔵」。米国の民主主義を日本に伝えた彦蔵が生きていたら、今の米国と日本をどう評するだろうか?

 2017年1月20日の就任式でトランプ大統領が手を置いた聖書は、156年前リンカーン大統領が就任式で使ったものであった。民主国家米国の指導者として、これからの時代を創る重責は計り知れない。夕日に照らされたアメリカ彦蔵の墓標が、何かを語りかけてくれるような気がしながら、青山霊園を後にした。

20170315hirabayashi_500.jpg青山霊園内の外人墓地入口にあるモニュメント

(写真)筆者

平林 佑太

TAG:

※本記事・写真の無断複製・転載・引用を禁じます。
※本サイトに掲載された論文・コラムなどの記事の内容や意見は執筆者個人の見解であり、当研究所または(株)リコーの見解を示すものではありません。
※ご意見やご提案は、お問い合わせフォームからお願いいたします。

戻る