2023年07月31日
内外政治経済
研究員
小川 裕幾 中澤 聡 木下 紗江 山本 晃嗣
日本では、賃金が上昇しない状態が「永久凍土」のように四半世紀以上続いてきた。しかし、足元で物価上昇が加速する中、変化の兆しが出ている。特に転職市場の拡大は高スキル人材の流動性を高め、賃金上昇につながっている。中長期的な人手不足を踏まえると、賃上げなくしては有望な人材の確保が難しくなるだろう。今後は、「生産性を向上させて、賃上げにつなげる」よりも「賃上げにより有望な人材を確保し、生産性を向上させる」という「背水の陣」的な発想が必要になるのは必至だ。
全国の6月の消費者物価指数(CPI)の前年比伸び率は3.3%。日銀目標の2%を大きく上回っている。生鮮食品とエネルギーを除いたコアCPIは1981年9月以来41年9カ月ぶりの高水準で、サービスCPI(帰属家賃除く)も伸び続けている。企業の5年後の物価見通しも過去に見ない高い水準だ。
IMFは世界的にコアCPIがしばらく高止まりするとみており、日本のCPI予測 も今年が2.7%、来年が2.2%。一方、国内民間エコノミストの予測平均(ESPフォーキャスト)は今年2.6%、来年1.7%とIMF より低めに見ている。ただ、ここ数カ月は予測が外れて上方修正を繰り返している。
こうした状況下、物価上昇が賃金に影響し始めている。今年の春闘では、賃上げの理由として「物価動向」を挙げた企業の割合が急増。「定期昇給相当分込みの賃上げ合計」(平均賃金方式。5272組合の加重平均)が1万560円(3.58%)増となった。前年同時期の賃上げと比べても4556円(1.51ポイント)の上昇。その結果、今年の賃上げ率は、1994年の3.13%以来、約30年ぶりの3%台に達した。
春闘の賃金上げの理由(出所)帝国データバンク、日本労働組合総連合会、中央労働委員会、総務省を基に作成
春季労使交渉の結果(出所)帝国データバンク、日本労働組合総連合会、中央労働委員会、総務省を基に作成(注)物価上昇率はCPI(除く生鮮食品、消費税率引き上げなどの影響を除く)ベースアップ率および定昇込み賃上げ率は、2013年までは中央労働委員会
日本の実質賃金は、先進7カ国(G7) の中でイタリアと並んで長期的に低迷している。直近5月でも前年比1.2%減で、14カ月連続のマイナス。労働者の立場からすると生活が苦しくなっており、賃上げ要求が高まりやすい状況になっている。
一方、企業の人手不足が深刻化している。日銀短観(2023年6月)の雇用人員判断DI は、バブル期並の「不足」超状態に接近している。製造業よりも非製造業、大企業よりも中堅・中小企業で人手不足が深刻だ。
それでも、これまでは終身雇用制の下、「不景気でも解雇しない代わりに、景気が好転しても賃上げを抑制する」のが日本式だった。しかし、転職市場の急速な拡大により、こうした慣行に風穴が開こうとしている。
転職を希望する人は増加し、特にコロナ禍以降、顕著になっている。転職希望は公的統計では緩やかに上昇しているが、民間求人サイトでは急上昇。民間求人サイトは登録が簡単でオファーの比較が容易なため、採用側も求職側もサーチ・コストが劇的に低下している。
転職希望者数(出所)総務省を基に作成
求人広告掲載件数(民間)(出所)全国求人情報協会を基に作成
来年、再来年にかけて 、物価の上昇率が鈍化する可能性はある。しかし 、 少子化が進む中で中長期的に人手不足はさらに深刻化し、賃金上昇圧力が続くと考えられる。とくに市場原理が働きやすいのは、①専門人材・技術者、管理職②若手③非正規労働者―。今後、景気の下押し圧力が強まった場合、生産性の低い中小企業などは賃上げに耐えられなくなる事態も考えられる。そうなると人材が確保できず、ビジネス継続が困難になり市場から退出を迫られる。賃上げにより労働者のモチベーションを高め、有望な人材を確保し、背水の陣で生産性を上げていくという発想が重要になると考えられる。
小川 裕幾 中澤 聡 木下 紗江 山本 晃嗣