2024年09月25日
内外政治経済
所長
早﨑 保浩
国際金融交渉の要(かなめ)である財務省財務官を3年間務め7月末に退任した神田眞人氏(現内閣官房参与、財務省顧問)は今般、日本政府からアジア開発銀行総裁の後任候補として指名された。外国為替市場への介入で知られることが多い財務官の仕事は、実際は幅広く奥深い。神田氏自身「為替市場の仕事は全体の5%」というほどだ。多岐にわたる財務官時代の仕事のうち、ロシアのウクライナ侵略などで分断が深まる下での国際交渉と、国際収支に関する神田氏が主宰した懇談会での議論に焦点を当て、現在の思いを聞いた。「日本への国際的な信頼は高まっている。日本経済には『伸びしろ』がある」―。これが神田氏のメッセージだ。(聞き手・早﨑保浩所長。9月11日インタビュー)
――財務官と言えば為替介入を思い浮かべる人が多いと思う。実際はどうなのか?
財務官は為替介入が仕事と世間では思われているが、為替相場に関する仕事は全体の5%ほど。その他の時間は、主にG7(先進7カ国)、G20(20カ国・地域)をはじめとするさまざまな先進国やグローバルサウス諸国、各国際機関との関係構築や交渉などに費やした。
――どのような3年間だったのか?
財務官を務めた3年間は数百年に1度の変革期と重なった。 まず、デジタル化が進展する中で、中間層の没落や貧富の差の拡大が生じ、社会が不安定化した。これが権威主義やポピュリズムの台頭をもたらした。 また、新型コロナが、社会に深い後遺症を残しただけでなく、サプライチェーンの混乱、ペントアップ(抑えられていた)需要がインフレや景気の振幅を生み、経済にも大きな影響を与えた。強い需要は、ロックダウンによる消費低迷の反動のみならず、財政支援による過剰貯蓄にも加速されたとみられる。
さらに、新型コロナ対応のためのさまざまな施策が、国民や企業にモラルハザード(倫理観の欠如)を生む面があったことも否定できない。フリーランチに国民がなれてしまい、補助金など支援策の取り止めは難しくなった。各国中央銀行の利上げは、過去に起きたような新興国からの資本流出などにより国際金融危機にならないか心配だった。
インフレが進行する中で、ロシアのウクライナ侵略が輪をかけた。さらに中東地域の混乱も加わった。こうした状況への対応だけでも大変だったが、議長国を7年に1度務めるG7や同じく3年に1度の「ASEAN(東南アジア諸国連合)+3(日中韓)」の仕事も重なった。(議長国が重なるのは21年に1度で)さまざまな制度構築を主導する役割も負った。OECD(経済協力開発機構)コーポレートガバナンス委員会の議長も務めた。連日電話会議が続き、眠れない日が続いたのが正直なところ。
――G7の結束は万全だったのか?
ロシアのウクライナ侵略を機に、G7諸国の結束は強固になった。7カ国の立場がこれほど同一にそろうことは実は珍しい。
日本がG7議長国だった昨年は、日本主導でG7による400億ドルの財政支援とIMF(国際通貨基金)による総額156億ドルの支援プログラムに合意したほか、凍結したロシア資産の活用について議論を進めた。今年6月のG7プーリアサミットにおいても、ウクライナへの支援やロシア制裁の強化で足並みをそろえた。凍結資産の活用により、本年末までに500億ドル規模の特別収益前倒し融資(*注1)を立ち上げることにも合意した。法技術的にも難しいこの問題で合意を得たことは大きな成果だ。
*注1:ロシアがウクライナへ賠償を行うまでの間、EU内で凍結しているロシアの国家資産から発生する特別な収益を返済原資として、G7が前倒しで行うウクライナへの復興支援融資
――ウクライナへの思いは?
私自身も昨年8月にウクライナを訪れ、キーウのほか戦火が続くブチャを訪問し、強い緊張感を味わった。日本政府もウクライナを支援する揺るぎない姿勢を堅持している。2022年3月以降、約120億ドルの支援を表明しており、このうち世界銀行(世銀)融資への85億ドルの信用補完では、わが国の財政状況が厳しいため、拠出国債の活用という工夫も行った。ロシアの侵略を終結させて、ウクライナの復興に国際社会として力強くコミットする必要性を強く感じている。
――中国との関係はどうか?
グローバルサウスの存在感は高まり、これらの国々との協力関係は極めて重要になっている。このうち、中国との関係では、「主張すべきところは主張し、協力すべきところは協力する」との戦略的互恵関係の構築を基本線に、さまざまな課題で建設的に話をした。中でも、発展途上国や低所得国の債務問題では、先進国の貸し手の集まりであるパリクラブ全体の与信額を中国が上回る状況になっており、問題解決には中国の協力が不可欠だ。
国際局長の時だが、2020年11月に中国も加わるG20 財務大臣・中央銀行総裁会議で、低所得国の債務を削減する場合の共通の枠組み(コモン・フレームワーク)に合意できたことは、中国が先進国と同じ枠組みの中で協力しながら債務問題に対応する出発点となった。債権国・債務国双方にとって、債務再編の時間軸とプロセスに関する予見可能性を高める上で大きな前進だった。
――中国以外のグローバルサウス諸国とはどうか?
G20の議長国は、2022年以降インドネシア、インド、ブラジルとグローバルサウスの国が続き、来年も南アフリカが務める予定だ。債務問題に限らず、気候変動、国際課税、国際開発金融機関のあり方など、さまざまな面で協力関係を強めている。
このうちインドネシアとは、「ASEAN+3」の共同議長国を務める関係ともなった。そして、今年5月に、経済危機時に加盟国間で協力し合う枠組みであるチェンマイ・イニシアチブ強化の一環で、感染症や災害等の緊急時にすぐに利用可能な緊急融資ファシリティの創設にこぎ着けた。これは日本の提案によるものだ。
また、G20のメンバーでないグローバルサウス諸国への訪問にも力を入れた。 もはや先進国と新興市場国・途上国が対立する時代ではない。基本的な価値観を共有し、建設的な協調関係を築くことができる状況になりつつあると思う。
――さまざまな国際交渉の中で、特に思い出深いものを教えてほしい。
さまざまあるが、二つに絞りたい。まず、スリランカの債務再編の合意(今年6月)。インド、フランスとともに3カ国主導で交渉・調整を続け、債務再編を合意した。債権国会合に参加しない債権者との透明かつ公平な対応の確保にもこぎ着けた。交渉には1年を要したが、中所得国の債務問題に関する初めての合意であり、今後の債務問題対応のスタンダードともなり得る画期的な内容となった。また、債務問題に対する世界的な理解の促進にもつながった。
もう一つは、国際課税問題。もうすぐ決着の線まで何とか持ってきた。後一歩のところだ。本来はもう少し早く片を付けたかったのだが。国際課税問題は、物理的拠点を持たずに市場にデジタルサービスといったビジネスを行う企業に対する市場国(*注2)への新たな課税権の配分と、企業誘致のための軽課税を許さないグローバルミニマム課税の導入(国際最低税率15%導入)の2本柱だ。これが実現すれば、国際課税に関し100年に1度の画期的な前進となる。
*注2:グローバル企業が拠点を持たずにデジタルサービスなどの事業を展開している国
――日本の経済的地位は低下しているが、国際交渉面でハンディにならないのか?
経済規模で言えば日本の地位は低下している。グローバルサウスの新興国・途上国の存在感は高まるばかりだ。 しかし、G7やG20のような場で活動した実感は、特に知的な貢献の面でリーダーシップを発揮することに関する日本への期待の高まりだ。日本は国際的な課題の解決に向けて、先進国対新興国という枠組みにとらわれることなく、建設的な議論でグローバルに効果的な解決策を生み出すことを期待されている。
サプライチェーン強靭(きょうじん)化、経済のデジタル化対応など多岐にわたる国際的な課題を解決するためには、政策や制度作りが必要不可欠。そうした面で知恵を出し、先進国と新興国・途上国双方を巻き込んで解決策を見いだしていく。
こうしたことができる日本への信頼感や期待はむしろ高まっている。世界に貢献し尊敬される国になることは可能だ。
――主催した懇談会「国際収支から見た日本経済の課題と処方箋」のレポートが大きな話題となった。懇談会を立ち上げた意図は?
貿易収支、第1次所得収支、サ―ビス収支、金融収支等から構成される国際収支統計は、日本の姿や実力を捉えるうえで、さまざまな素材を提供する、良いレンズの役割を果たしてくれる。このため、論客を集めて、国際収支から見た日本経済の課題と処方箋を探ることにした。この7月に報告書公表にこぎ着け、結果的に、財務官としての最後の仕事の一つとなった。
――主な結論を説明してほしい。
貿易収支の状況から、自動車に匹敵する黒字の担い手の不在、鉱物性燃料の輸入依存、産業空洞化などが課題として浮かび上がった。サービス収支からは、インバウンドが好調な一方、デジタル・研究開発・金融等の分野での海外依存が明確となった。
第1次所得収支の黒字は日本に半分しか還流せず、海外で再投資されている。金融収支面では、新NISAの影響もあり家計の対外投資が増える一方、対内直接投資の対GDP(国内総生産)比率はOECD加盟国で最低だ。要は日本には投資先としての魅力が無い。
――懇談会での議論を経て、日本経済に悲観的になったか? むしろ楽観的になったか?
国際収支から見えた日本経済の現状を「良し」とすることはできない。課題は多岐にわたる。ただ、逆に言えば、課題解決を通じ日本が成長していく「伸びしろ」もあると思った。人口減少や激化する国際競争を踏まえると、残された時間は少なく、急ぐ必要があることは間違いないが、着実な課題解決や構造改革により日本経済は成長し得る。
――課題解決の処方箋は?
報告書では、処方箋として、労働移動円滑化による生産性向上、人的資本への投資、再エネ等を含む技術の開発・活用などを掲げた。 私個人としては、市場経済のダイナミックスを最大限に引き出すことが重要と思っている。日本の企業は367兆円もの現預金を保有している。これを技術開発や人的資本に投入することは、十分可能なはずだ。
岸田政権は労働市場の三位一体の改革を掲げたが、正しい方向だ。市場の活力を取り戻すべく、モラルハザードを減らして企業の新陳代謝を促進することに加え、ジョブ型雇用、リスキリングなどに企業は取り組むべきと思う。能力のある若手、労働意欲があるシニア層の双方が活躍できる場を提供してほしい。ようやく軌道に乗ってきた賃上げの継続も期待したいし、2030年代半ばの達成を目指している最低賃金1500円も、より早く実現することを期待している。
また、企業内・企業間・産業間、例えば物流、建設、介護などの人手不足産業の人材流動化が必須だ。生産性の高い企業や産業に人材が移動しなければならない。
外国人人材の活用も欠かせない。このためには、賃金水準引き上げ、英語でビジネスができる環境作り、帯同家族の生活・教育環境改善などの取り組みが欠かせない。今年6月に成立した改正出入国管理法にも期待している。
株価チャートを見る会社員(AI生成画像)
――労働市場以外の面はどうか?
技術面では、再エネ、ペロブスカイト太陽電池、原子力関係などが重要だ。短期的にGAFAMのプラットフォームを凌駕(りょうが)することは難しいが、これを最大限に活用しつつデジタル製品やサービスを強化する余地は大きい。
そして、何と言ってもイノベーションの活性化。官民挙げたスタートアップ支援、博士人材活用なども重要と思う。 繰り返しになるが、課題は大きいが、その分、これらを克服することで必ず成長できる。「伸びしろ」は大きい。日本の産業界にもこうした意気込みを期待したい。
――最後に為替相場について一言うかがいたい。
最近の為替相場の変動は、経済のファンダメンタルズから離れた動きと思っている。ただ、中長期的に見ると、実質実効為替レートは、1995年のピークに比べて3分の1程度のレベルに落ちている。サミュエルソン・バラッサの説によれば、為替レ―トは製造業の生産性上昇率の違いにより変動する。まさにそうしたことが起きているように感じる。
繰り返しになるが、日本が直面する課題を克服していけば、生産性が向上し日本経済は伸びる。そうすれば、円の実質実効為替レートも増価する。これが目指す方向と思う。
〔略歴〕
神田 眞人氏(かんだ・まさと)
1987年東京大学法学部卒、大蔵省(現財務省)入省。世界銀行理事代理、主計局主計官、国際局総務課長、金融庁総務企画局参事官、主計局次長、大臣官房総括審議官、国際局長などを歴任し、2021年から財務官。今年7月31日付で退任し、内閣官房参与、財務省顧問に就任した。
早﨑 保浩