2023年10月03日
地域再生
編集長
舟橋 良治
世界一に輝いた町が四国愛媛にある。それは、築城で名をはせた戦国武将、藤堂高虎が城下町の基盤を作った愛媛県大洲市。人口は4万人だが、今春、オランダの国際的認証団体「グリーン・デスティネーションズ」が選ぶ「世界の持続可能な観光地」の文化・伝統保全部門でトップになった。数多くの古民家を改修して高級ホテルなどとして活用。町並みを保全して海外からも観光客を呼び込み、雇用の創出にもつなげている。
スペイン出身の研究者もスタッフとして支援する取り組みは、息の長い観光政策、地域活性化のヒントになりそうだ。
大洲市の古民家が建ち並ぶ一角に足を踏み入れた。懐かしいというのとは少し違う。かつて、どこかで見たような気がする町並みとでも言うのだろうか。
江戸末期から明治、大正、昭和の建物が重層的に連なっている。ガラスが入った格子の引戸や窓が印象的な長屋づくりの商家。豪商の居宅や蔵、レンガ造りの製糸工場倉庫などがホテルやカフェ、クラフトビール醸造所、オーガニック食品のショップなどとして利用されている。
古民家を改修した町並み【7月19日、大洲市】
かつての武家屋敷と商家街の仕切りとなっていた石畳の通りはNHKの連続テレビドラマ「おはなはん」(1966~67年放送)の撮影が行われた舞台で今も人が訪れている。町角からは木造で復元されて往時の姿を取り戻した大洲城が見える。その大洲城の下を流れる肱川(ひじかわ)で行われる鵜(う)飼いは日本3大鵜飼いの一つで高度成長期には多くの観光客が訪れていた。
しかし、つい5年ほど前は壊れそうな建物や空き家が目立ち、寂れていた。危機感が高まった中、持続可能性をキーワードにした観光開発が始まり、古民家の再生、古い町並みの維持を実現。生き返った町には活気が戻り、新型コロナウイルス感染症のまん延で自粛が呼びかけられていた時期にも宿泊客が足を運んでいる。
肱川の河岸に建つ大洲城【7月18日、大洲市】
「伊予の小京都」と称される大洲は、大洲街道と宇和島街道の結節点に位置する古くからの交通の要衝だった。鎌倉時代末期に伊予宇都宮氏が初めて築城。1595年(文禄4年)に藤堂高虎が入城し、城郭や城下町の整備、町割りを本格化した。
江戸後期からは櫨(はぜ)の実から採取した油脂からろうそくなどを生産する木蝋産業の中心地として、隣町の内子と共に栄えた。
肱川の川面から見える大洲市河岸【7月19日、大洲市】
肱川を使った水運にも恵まれた土地で、明治期には木蝋の輸出拠点となっていく。木蝋は天然のワックス。口紅の原料としてフランスを中心とした欧州などとの貿易で財を成した河内寅次郎が豪華な邸宅などを残している。
その代表が、今も観光名所として人を引き付けている国指定重要文化財「臥龍山荘」。茶の湯や数寄(すき)と呼ばれる文化で客をもてなす施設として建てられ、能などの鑑賞もできたと言われる。山荘の案内係は「黒川紀章氏(故人)が『桂離宮にも劣らない。借金してでも手に入れたい』と称賛した」と説明してくれた。
臥龍山荘の茶室「不老庵」(左)【7月17日、大洲市】川面から見た茶室「不老庵」(右)【7月19日、大洲市】
河内氏の子孫が管理していたが、昭和になって維持ができなくなり、大洲市が譲渡を受けて整備、一般公開している。
木蝋産業だけではない。大洲地域は伊予生糸の本場として1000年以上の歴史を持つ。711年(和銅4年)に元明天皇が伊予国など30カ国に錦綾を織らせたとされる。
明治維新後、換金作物の栽培が全国的に広がり、大洲県知事が養蚕業を奨励。その後の製糸業の発展は桑の栽培に適した土地柄のおかげだった。
大洲市・肱川の鵜飼い【7月19日】
大洲盆地は肱川が2~3年に一度氾濫し、地力を回復させてくれた。洪水に強い養蚕用の桑、また木蝋用の櫨も、こうした土地での栽培に適していた。1926年(大正15年)には大洲地方の畑地総面積に桑園が占める割合が23.2%まで増加。愛媛県下の機械製糸工場の約3割が大洲地方に置かれていた。
しかし、昭和になると養蚕製糸業は、米国を震源とする20世紀の世界恐慌、化学繊維の台頭もあって衰退を余儀なくされていった。木蝋も化学製品の普及で衰退。しかし、養蚕製糸、木蝋で栄えた歴史は藤堂高虎が基礎を作った城下町に美しい町並みを残した。
木蝋や養蚕製糸業は衰退したが、「伊予の小京都」は第2次大戦後になると観光で繁栄を維持する。その柱の一つが鵜飼いだった。江戸時代に大洲藩で鵜を使った漁法があったというが、明治以降は漁法の近代化に伴い消滅。そんな中で1957年に観光事業として復活し、最盛期には65艘(そう)の屋形船あったという。
鵜飼いは今も夏の風物詩として維持されている。屋形船に乗ると船頭さんは軽妙な語り口で「昔は市内に旅館が数多くあり、鵜飼いを楽しむお客らで繁盛した」と微笑みながら話してくれる。鵜飼いの最盛期は1966年。この年は「おはなはん」の撮影地としても脚光を浴び、観光客が増加。高度成長期で工場誘致が功を奏したこともあり、町に活気があった。
旅館を建て替えて造られた和風レストラン「油屋」【7月19日、大洲市】
転機は高速道路の開通など交通の便の向上だった。大洲から約50キロしか離れていない道後温泉に泊って鵜飼いや観光を楽しむ日帰り観光客が増加。屋形船は15艘に減少した。
屋形船の船頭さんいわく、「道後温泉や松山なら朝まで遊べるが、大洲ではそうはいかない」。観光客を泊める大洲市の旅館は姿を消していった。
愛媛県・大洲城の真下を流れる肱川で行われる鵜飼いは今も夏の風物詩だ。大洲の鵜飼いは1957年に始まっており、全国11カ所の中で歴史が最も新しいが、岐阜県長良川、大分県三隅川と並ぶ日本3大鵜飼いに数えられている。その理由の一つとなっている、独特の楽しみ方を実際に堪能してみると...。
大洲市の鵜飼い【7月19日】
長良川などの鵜飼いは、停泊している屋形船に鵜匠の船が近づいてきて鵜がアユを捕る様子を披露する。これとは異なり、大洲では鵜飼い船の両舷を2艘(そう)の屋形船が挟む形で上流から下流に並走。かがり火に照らされた鵜飼いを真横で長い間、見物できる。
手を伸ばせが鵜に触れる近さだが、船頭さんは「絶対に指差したり、手を出したりしてはいけません」と厳しく注意する。「鵜は動くものなら何でもくわえる。くちばしは鋭く、かまれたら大けがをする」のだという。
洲市の鵜飼い屋形船の船頭さん(中央)【7月19日】
鵜飼いが進むにつれて船頭さんの語り口も巧妙に。ある年に開かれた鵜飼いサミットでの出来事を紹介してくれた。アユの捕れる数が話題になり、大洲の参加者が「100匹」と発言すると、別の参加者も「100匹」と自慢する。
そのうちに話がかみ合わなくなったというが、その理由は「肱川は一晩で100匹なのだが、別の川では1シーズンで100匹」だったとか。船頭さんの表情は大洲が「日本3大鵜飼い」の一つではなく、「日本一」だと語っていた。
自慢話が終わると次は鵜匠の処遇について。「長良川の鵜匠は宮内庁職員で国家公務員。こっちはアルバイトで収入は10分の1」と自虐気味に言うが、表情は笑っていた。
大洲市の鵜飼いで捕れたアユ【7月19日】
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