2016年07月01日
最先端技術
研究員
可児 竜太
1996年に前人未踏の七タイトルを制覇した不世出の棋界の天才、羽生善治三冠(王位・王座・棋聖)が、第2期叡王戦(株式会社ドワンゴ主催)にエントリーした。一方、次期叡王を迎え討つ最強の将棋AI、すなわち人工知能を決する「電王トーナメント」も今秋に開催予定。両者の優勝者が2017年開催の電王戦(同)で激突する。
今年はAIの話題が花盛り。火付け役となったのは、米グーグルのアルファ碁(AlphaGo)。年初、同社は英科学雑誌ネイチャーで、このAIが欧州チャンピオンのプロ棋士と対戦し、5戦全勝したと発表したのである。囲碁AIがハンデなし、フルサイズの碁盤で人間に勝利したのは世界初の快挙だ。
3月には、このAIが囲碁界のトップ棋士の一人で、「魔王」の異名をとる韓国人棋士イ・セドル9段と対局。4勝1敗で勝利し、その実力を証明した。世界中の囲碁ファンがYouTubeの対局生放送にクギ付けになり、テレビや新聞ではAI特集が繰り返し組まれている。
近年の人工知能の急速な発展を支えているのが、「ディープ・ラーニング」(深層学習)である。これは2006年、カナダ・トロント大学のジェフリー・ヒントン教授が考案した技術。大量の神経細胞(ニューロン)が層状に積み重なる、人間の脳を模倣したアルゴリズムである。
具体的には、このアルゴリズムを組み込んだコンピューターが、与えられたデータから関連するものを抽出して一つの「まとまり」にする。次に、幾つかの「まとまり」から新たに関連性を見つけ出す。これを多層構造化しながら、より高い次元で特徴を抽出して概念化する。いわば、乳幼児が目や耳から得た大量の情報を処理しながら、「お母さん」や「ネコ」「おもちゃ」といった概念を徐々に獲得していく過程に似ているという。
AI学界では、「人工知能50年の歴史でブレークスルー」と呼ぶべき画期的な発見とされる。既に様々な分野においてその技術が応用されており、画像の自動分類(タグ付け)やコールセンターの対話システムなどは実用段階に近いところまで来ている。
もちろん、先のAlphaGoもまた、ディープ・ラーニングの賜物だ。ディープ・ラーニングは一般消費者の生活の中にも、徐々に入り込んでいる。例えば、今年4月にリコーイメージング株式会社が発売したPENTAX初のフルサイズデジタル一眼レフカメラ「PENTAX K-1」。ディープ・ラーニングを活用し、開発段階で1万枚以上の画像を学習させた。それによって、実際の撮影時に被写体の状況を認識し、シーンごとに最適な撮影モードに自動的に切り替えられる。
開発を担当した同社開発統括部第1開発部マネージャーの上原広靖氏は次のように話す。「2~3年前まではディープ・ラーニングがどの程度使い物になるか分からなかった。思い切ってK-1の試作機に搭載してみると、想像していたよりはるかに正確な画像認識能力を示した」―。実機のテストに参加したプロカメラマンの評判も上々だったという。
このような人工知能の「秒進分歩」というべき進化を目の当たりにすると、「人間の仕事はどこまで人工知能に代替されるのか」という疑問が沸いてくる。そこで、独自の人工知能を開発し、大学発のベンチャーとして多様な産業に利用するよう働き掛けている、東京工業大学像情報工学研究所の長谷川修准教授に取材した。
長谷川准教授の開発した「SOINN(ソイン)」は、ディープ・ラーニングとは異なる、独自の人工知能アルゴリズム「自己増殖型ニューラルネットワーク」である。学習能力と汎用性に大きな特徴があり、「自分で覚えて賢くなる」― 。幅広い作業に従事させることができるという。
このため、長谷川准教授はSOINNを人工知能と区別し、より人間に近いという意味も込めて「人工脳」と呼ぶ。SOINNは世界的にも注目を集めており、米国の国立科学財団(NSF)が視察に訪れたほか、米陸軍から研究支援の申し出もあったという。
メディアで話題となったのは、SOINNがドローンを操縦する際の自律的学習である。まず、SOINNを搭載したパソコンにドローンを無線接続する。その上で、SOINNにドローンのホバリング(停止飛行)を指示。それによってドローンは空中待機状態に入る。次に、ドローンに向けて送風機で横風を当てたり、人間が機体を押したりという物理的な妨害を与える。当然、こうした緊急事態への対処方法をプログラミングされていないから、ドローンは墜落してしまう。
しかし、ここで操縦役をSOINNから人間のベテラン操縦士に交代。操縦士は外部からの衝撃でドローンが失ったバランスを取り戻し、うまく体勢を立て直しながら、スタート時のホバリングに戻る操作をやってみせる。するとSOINNは、ドローンに搭載されたカメラやセンサーがもたらす情報を基に、人間の操縦方法を「経験的に学ぶ」。その後、同じような緊急事態が起こった時、SOINNは人間の助けを借りなくても、機体を巧みに操作できるようになっている。
一般的な人工知能の場合、起こりうる様々なケースを想定し、人間が対処方法をプログラミングしてあげなければならない。ところが、SOINNはその操作を自ら「学習」してしまうのだ。
例えば、アメダス等のデータをSOINNに与えれば、ピンポイントの天気予報が可能になる。気象情報や景気指標などを提供すると、スーパーで店舗の売上高を予測できる。また、血圧や体温などの生体情報から人間の健康管理、工場では工作機械の異音から故障予測など、非常に幅広い分野に応用できるという。
東京工業大学 長谷川修准教授
(写真) 小笹泰 PENTAX K-50 使用
SOINNをロボットに搭載すれば、人間が言葉をかけるだけで様々な作業を覚えていく。高齢者の家庭での様々な軽作業や介護業務など、「お手伝いロボット」として活躍することも期待される。
まさに驚くべき汎用性を持つ人工知能である。だが長谷川准教授によれば、そんなSOINNであっても、「何でもできる」というわけではない。例えば、画期的なベンチャービジネスの起業や人間に感動を与える芸術の創造など、世の中に無いものを創り出す「発想」の能力はないという。
ところで、人工知能が普及すると、多くの人が職を失うのではないか-。こうした疑問に対し、英オックスフォード大学が2013年に衝撃的な研究結果を発表した。マイケル・A・オズボーン准教授とカール・ベネディクト・フライ研究員が米国の職業分類を基にした分析によると、米国の総雇用者の約47%の仕事が今後10~20年で人工知能を搭載したコンピューターに代替されるというのだ。
さらに一部の人工知能研究者は、人間の頭脳の機能を完全に代替する「汎用的な人工知能」も創り出すことが可能だと予測する。こうした人工知能が登場すると、人間が労働から完全に閉め出される恐れもある。その上、人工知能がさらに優れた人工知能を生み出すようになると、そこから先は人類の理解が及ばない世界になってしまうかもしれない。
これは技術的特異点(シンギュラリティ)と呼ばれており、米国の未来学者レイ・カーツワイル氏は2045年頃に訪れると予測している。しかし、筆者が何人かの研究者に話を聞いたところ、シンギュラリティには現在の技術水準よりもう一段上の技術革新が必要とされる。このため、2045年かどうかは分からない。ただし遅かれ早かれ、人工知能が多くの人間の仕事を代替していくのは間違いないだろう。
コンピューターに代替される可能性の高い職業
人間vs人工知能の労働量
その一方で、人間と人工知能は共存可能だという見方もある。国立研究開発法人・産業技術総合研究所を訪ね、人間情報研究部門の持丸正明部門長を取材した。持丸氏は人間の脳や身体、行動などと、製品やサービス、社会の関わりを研究しており、「人工知能が人間の仕事を全て奪ってしまうわけではないかもしれない」と指摘する。
その上で、持丸氏は「人間が労働から喜びを得ているのであれば、それをアシストする役割を持つ人工知能が生まれてくる可能性もある。例えば、ご主人様である人間を朝たたき起こし、地域の清掃活動に参加させる。それをロボットが遠くから撮影してSNSに投稿し、多くの人から『いいね!』を集める手助けをする...。そんな人工知能もありうるのではないか」―
人間の幸福の根源には、仕事から得られる自己実現や他者からの承認・賞賛というものがあるのではないか。そうであれば、人工知能がその欲求を満たす「お手伝い」をしてくれるということだ。人間が人工知能を理解するのと同様に、人工知能もまた人間を理解してくれる未来が訪れるのかもしれない。
先に紹介した東工大の長谷川准教授も、SOINNと人間が協調する未来を思い描いている。幾つかアイデアを教えていただいた。
「少子高齢化で不足する労働力として、例えば介護の現場などで活用してほしい」
「原発などで危険な作業に従事している人間がいる状況を何とかしたい」
「生産性を上げることで豊かな社会を築き、万人が経済的な事情に関わらず、大学教育を受けられるようにしたい」
少子高齢化の加速などで、日本には出口の見えない問題が山積し、社会に明るい展望を描きにくい。こうした中、人工知能の革新性が一筋の光のように見える。日本は世界でもロボット研究の歴史が長く、多くの産業用ロボットが活躍するなど、ロボットに対する心理的な抵抗感も少ない。もしかしたら、世界に先駆けて人工知能を受容する社会になるかもしれない。
産業技術総合研究所 持丸正明部門長
(写真) 筆者 PENTAX K-30 使用
可児 竜太