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「iPS創薬」支援を事業化

 リコーの細胞研究最前線

2024年09月03日

最先端技術

研究企画室
帯川 崇

 東京大学と株式会社リコーは、iPS細胞(人工多能性幹細胞)を使った神経細胞の作製に成功したと昨年発表した。この神経細胞は「認知症治療薬」の創出につながる可能性がある基礎研究の成果。認知症に対する世界的な関心が高まっている中で注目を集めた。リコーは近年、上記の研究にとどまらず、「iPS創薬」と呼ばれる分野をサポートする研究開発や事業化を積極的に進めている。さまざまな病気の治療に役立つ可能性を秘めた、その研究開発をiPS細胞の概念から順を追って紹介しよう。

人工的につくられた初期の細胞

 iPS細胞は、「Induced Pluripotent Stem cell」の略で、「あらゆる細胞になりうる人工的につくられた初期の細胞」だ。京都大学の山中伸弥教授による発明で一躍有名になった、あの技術だ。同氏がノーベル賞を受賞してから10年以上が経過。再生医療への応用、病気の原因解明や新薬開発などへの期待は高く、今も多くの研究者によって研究が続けられている。

 例えば、事故や病気などで臓器の機能が低下して従来の治療方法では治る見込みがなくなってしまった時、他人の正常な臓器と入れ替える、いわゆる臓器移植も選択肢となる。しかし、ヒトの細胞は遺伝情報が一人一人違うため、適合するかどうかわからない。最近では優れた免疫抑制薬を用いた臓器移植があるとはいえ、その成否は神のみぞ知る領域だ。

さまざまな細胞や臓器になれる可能性

 拒絶反応を起こさない自分自身の遺伝情報をもつ臓器を得ることが理想だ。これを実現しようとすると、ES細胞(発生初期の受精卵を構成する細胞)やクローン(無性生殖により発生する遺伝的に同一の個体や細胞)など倫理的に問題となる選択肢を除き、現在では以下の2パターンが候補となる。

 一つ目は、自分の臓器や組織から正常な細胞を採取、培養して再び健康な臓器や組織をつくって移植手術する方法。これは採取される自身の体への負担が大きい場合が多く非現実的だ。

 二つ目は、自分の皮膚や血液など採取しやすい部位から細胞を一部採取し、受精卵に近い初期の細胞状態にいったん戻し、希望する機能の細胞として再び成長させ、健康な細胞や臓器をつくって移植する方法。この受精卵に近い初期の細胞が、iPS細胞。神経や心臓、肝臓、血液などさまざまな細胞や臓器になれる可能性を秘めている万能細胞のイメージだ。

ips.jpgiPS細胞のイメージ(出所)リコー資料を基に筆者作成

ニーズの高い神経細胞・心筋細胞

 iPS細胞から、欲しい細胞に成長させる際の各種条件は、いわゆる「スイッチの入れ方」として極めて重要だ。実際には細胞に遺伝情報を伝えるメッセンジャーRNA(mRNA)を導入することでスイッチが入るのだが、その入れ方に特別な技術があるのだという。もちろん、その後の細胞がスムーズに成長するための成長環境や保管・輸送に関する温湿度などの条件も大事なノウハウのようだ。

 iPS細胞の研究領域として、神経細胞や心臓を構成する心筋細胞が多い。その理由を説明しておきたい。これらの細胞の社会的意義やニーズが高いのはもちろんだが、技術的に大きな意味があるのだという。その理由は①iPS細胞ならではのメリット②ヒト特有の事情―の2点だ。

メリット、高いニーズ

 1点目は、神経細胞や心筋細胞は簡単には採取できないため、iPS細胞から作るメリットが大きい点。血液や皮膚など簡単に採取して培養可能な場合に、わざわざiPS細胞を使うメリットが少ないのと対照的だ。

 2点目として、さまざまな研究に不可欠な、動物実験とヒト臨床試験の違いを挙げることができる。神経細胞を対象とした医薬品などの評価は通常、まず動物実験を行う。その段階で有効であった薬品が、ヒト試験の段階に進むと効果が認められなくなってしまうケースが多いという。

 ヒトと動物では神経の働き方が異なるのではないかと言われているようだが、いずれにせよ、最初からヒトの神経細胞で医薬品を評価したいというニーズがあるのだ。これは、倫理的な観点から動物実験をしなくてよいというメリットにもつながる。

疾患細胞を意図的に作る

 iPS細胞は病気のメカニズム解明や治療薬の開発にも活用できる。例えば、疾患をもつ患者の細胞をiPS細胞経由で培養し、疾患のある細胞を意図的に作り出し、薬の評価に使うことが考えられる。これが「iPS創薬」の考え方だ。

ips2.jpgiPS細胞を用いた治療薬開発のイメージ(出所)リコー資料を基に筆者作成

"世界初"の成果

 これまで見てきたように、人類の医療や健康に役立つiPS細胞のうち、神経細胞に着目した研究がリコーと東京大学の研究だ。

 この共同研究は、ヒトの脳神経細胞をiPS細胞からわずか2~3カ月間という短期間で成熟させ、その機能を観測することに世界で初めて成功した(2023年3月当時)ものだ。

 研究をリードするリコー細胞研究グループの林和花(りん・わか)リーダーは「母親の胎内で自然に成長するのに必要と言われる9カ月に対して3分の1以下という驚きの成長速度であり、今後の研究開発の効率化やコスト低減に大きく貢献できる可能性を秘める」と言う。

 神経細胞の成熟度合いは、スパインと呼ばれる神経信号を伝達する部位がどれだけ出来上がっているかで判断される。リコーではこのスパインの個数を計測する際に最新のAI技術を画像処理として活用している。

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iPS細胞由来の成熟した神経細胞
(出所)National Library of Medicine
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC10073939/

 上の図の緑色粒状部分がスパインと呼ばれる部位。iPS細胞由来の成熟した神経細胞が実際に電気パルス信号として細胞間を伝わる様子を下図に示す。赤線が実際に電気信号の通った跡だ。

ips3.jpgiPS細胞由来の神経細胞を伝達する電気信号
(出所)National Library of Medicine
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC10073939/

 こうした神経細胞の高速分化技術は、リコーが培ってきた技術に、2022年に子会社化した米国エリクサジェン・サイエンティフィック社の技術を加えて進化させることで得られたものだという。

医薬品メーカー向けに提供開始

 リコーでは「iPS創薬支援事業」を既に始めている。この事業は、疾患患者由来のiPS細胞を目的の細胞に分化させて多数培養し、医薬品メーカーへ提供することで治療薬の創出を支援する。この枠組みを使えば、医薬品メーカーが保有する膨大な医薬品情報を基に、効率的に治療薬を開発・選定できる。短期間で患者への治療薬提供が可能になると見ており、積極的に推進する考え。認知症治療薬をはじめ、さまざまな治療薬の誕生につながると期待したい。

 リコーの細胞研究グループは、さまざまなバックグラウンドを持つ多様なメンバーが集まり、iPS細胞テクノロジーの研究を日々行っている。中には、記憶メカニズムの解明や、ニューロコンピューターの開発に貢献したいと意気込む研究者もいる。今後、一段の進化が期待される。


リコー・iPS細胞テクノロジーの紹介サイト
https://industry.ricoh.com/special/healthcare/biomedical/ipsc

 

帯川 崇

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