2014年04月01日
地域再生
HeadLine 編集長
中野 哲也
2011年3月11日午後2時46分、マグニチュード9.0という国内観測史上最大の地震が発生し、巨大津波が牙をむいて太平洋沿岸に襲いかかった。死者・行方不明者は1万8000人を超える。岩手県三陸沿岸を取材して歩くと、東日本大震災から3年が過ぎても、被災地には深い傷痕が残されたまま。しかし、市民は陽がまた昇る未来を信じ、不撓不屈の精神で復興に粘り強く取り組んでいる。
「包丁一本見つからない...俺はすべてを失ったのか...」―。40年にわたり三陸海岸中央部の岩手県大槌町(おおつちちょう)で芳賀鮮魚店を営んできた芳賀政和さん(70)が瓦礫(がれき)の山に入ると、そこには変わり果てた自分の店が...。すると、金縛りにあったように体が動かなくなった。
芳賀さんは3.11を外出先の岩手県宮古市内で迎えた。未だかつてない激しい揺れに耐えると、沖合で立ち上っていた「白い煙」が視界に入った。突然、幼いころ父親から聞かされていた教訓が頭の中によみがえり、「大津波が来る」と咄嗟に判断。車を捨てて近くの中学校を目指して崖を登り、辛うじて一命をとりとめた。
しかし、家族や店が気がかりで、芳賀さんは居ても立ってもいられない。車に戻って必死でハンドルを握り続け、翌日未明、へとへとで故郷に転がり込んだ。幸い、妻の洋子さん(70)は無事だったが、町の中心部は「焼け野原」。地震と津波と火災により、跡形もなく壊滅していた。大槌町では人口の1割近い約1300人が犠牲になった。
電気・ガス・水道のライフラインは断絶した。芳賀さん夫妻は冷え切ったコタツに体を突っ込み、ただただ震えるだけ。巨大津波は親類や仲間の命を一瞬にして奪い、人生の糧である店舗を破壊した。それでも、芳賀さんは「自分でも不思議だと思うんだけど、海を憎むことはなかった」―。15歳で漁師になり、30歳からは鮮魚の販売・加工で生計を立ててきた。「半世紀以上、海の恵みのおかげで俺は生きてこられた。だったら、店を再開して魚を売るしかないじゃないか!」と自分に言い聞かせると、ようやく立ち上がることができた。
とはいえ、店舗も機械も道具もない。ゼロからのスタートを考えると、芳賀さんは再び途方に暮れる。そんな時、行政からインターネットを活用する再建策を助言された。デジタル技術とはほとんど無縁の生活を送ってきたし、キーボードもたたけない。だが、覚悟を決めて鮮魚販売の仲間にネット通販の共同事業を提案。資金はないから、ネットを通じて全国から「サポーター」(一口1万円)を募ることにした。それを再建資金に充て、成功すれば「配当」として大槌産の鮮魚を宅配するという仕組みである。
大震災から5カ月後、こうして芳賀さんと3つの業者が「立ち上がれ!ど真ん中・おおつち」プロジェクトを発足。パソコンの得意な女性職員を雇い入れ、メールマガジンのほか、ツイッターやユーチューブなどもフル活用した。朝日新聞が全国版でとり上げたこともあり、サポーターの輪は予想をはるかに超えるスピードで拡大。ネット販売は軌道に乗りはじめ、サポーターに旬のサンマなどを「配当」できるようになった。プロジェクトは協同組合に発展し、芳賀さんが理事長に就いた。
ところが、芳賀さんはサポーター5000人達成の寸前で、募集を突然打ち切ってしまった。「水産業界の革命なのに、どうしてやめたのですか」と尋ねると、芳賀さんは「次の大津波がいつ来るか俺には分からない。その時は、サポーターに『配当』ができなくなる。そう考えると胸が締めつけられ、眠れない夜が続いたんだ...」とその心境を明かした。
サポーター募集をやめても、芳賀さんの店は回復軌道を維持している。だが、原発事故に伴う風評被害にも苦しめられ、売上高は大震災前の半分にも届かない。また、崩壊した冷凍施設の再建にめどが立たないし、芳賀さんは古希になっても後継者が見つからない。難題が山積しているのだが、「やる気とノウハウがある限り、仕事は続ける。妻と喧嘩しながらね...」という芳賀さん。キラキラ輝く夫妻の笑顔が、復興に向けて最強のエンジンとなる。
大槌町に隣接する岩手県釜石市。かつて市内の橋の上には、鮮魚やその加工品、野菜を扱う店がたくさん並んでいた。今は駅前橋上市場「サン・フィッシュ釜石」に生まれ変わり、市民の台所や観光スポットして賑わう。
昆政商店の菊池フサ子さん(71)は橋上市場時代から三十年余、海産物を販売している。3.11では、「小船が台風にもてあそばれているような強烈な揺れ」に襲われた。外を見ると、頑丈な街灯柱が右に左にグニャグニャ曲がっている。携帯ラジオを聴いていた市場のだれかが大声を張り上げ、「津波が来るぞ!!!」―。しかし、1960年のチリ地震津波を経験した菊池さんも、どの方向に逃げるべきか迷いに迷った。
結果として逃げた方向は正解だった。だが、菊池さんは「人の生死を『運命』で片づけたくない。そんなものはないと思うから...」と声をつまらせ、目頭を押さえた。首都圏から地元に戻り家業を継いだ、愛する弟夫妻を亡くしたという。大震災後、菊池さんは不眠や吐き気、めまいに悩まされ続けてきた。「もう3年、いやまだ3年。どっちなのか分からない...」―
大震災発生直後、釜石市の野田武則市長(61)が市庁舎の2階から外を見ると、まさに巨大津波が街に襲いかかろうとしていた。「自分の手の届く世界ではなく、別の世界で起きている気がした。頭の中が真っ白になってしまい、事実として受け入れられない。『茫然自失』という言葉しか思いつかなかった...」―。しかし次の瞬間、頭の中のスイッチが「市長」という現実に切り替わる。対策本部を立ち上げ、無我夢中で陣頭指揮を執りはじめた。
街は瓦礫の山となり、電気や水道などは寸断。緊急時に備えていた衛星携帯電話が役に立たず、通信も完全に遮断。対策本部は孤立無援となり、頼みの綱はロウソクの灯りだけ。湾岸部は最大20メートル近い津波にのみ込まれ、死者・行方不明者が1000人を超えた。
海に近い街の中心部が壊滅する中、過去の大津波の教訓は生きていた。釜石の子どもは普段の授業から、「想定にとらわれるな」「最善を尽くせ」「率先避難者たれ」を三原則とする防災教育をたたき込まれている。だから大震災でも小中学生は冷静に行動し、ほとんどの児童・生徒が無事避難した。釜石小学校では、9割以上の児童が既に下校していたが、全員が教えを守り自らの命を守った。野田市長は「子供が親を説得して、より高いところさらに高いところまで逃げ、命を守った家族が少なくない」と振り返る。
釜石の中心街を歩いて回ると、瓦礫はきれいに片づけられ、道路は概ね復旧しており、復興作業が急ピッチで進められていた。その一方で、3年経っても空き地が目立ち、放置されたままの建物に衝撃を受ける。
復興計画を作っても、市と国の各省庁、県、地権者などとの調整が容易でなく、何度も作り直さなくてはならない。最近は、建設資材や労務単価の高騰が苦労して作った計画に影を落としている。野田市長の自己採点では復興の進捗度は30%にすぎない。しかも住居に限れば、「ゼロ%」と言い切る。なぜなら人口約3万7000人のうち、5000人を超える市民が依然、仮設住宅での生活を強いられているからだ。
家賃無料でも、仮設入居者は「断熱効果が乏しいため、冬は非常に寒い。暖かくしようとすれば、自己負担の光熱費が二倍以上かかってしまう」「狭いから、受験生がいても勉強部屋を確保してやれない」と不満を訴えている。新設された公営復興住宅への入居は始まっているが、立地や家賃などに問題点も指摘される。仮設暮らしが解消されて初めて、釜石市民は復興、いや「復幸」を成し遂げたと言えるのだろう。
釜石市教育委員会によると、釜石という地名の由来はアイヌ語の「クマウシ」。クマ=「魚干し棚」あるいは「飛び跳ねる」、ウシ=「存在する」を意味する。古代から複雑で優美なリアス式海岸に魚が集まり、それが生活の糧となってきた。年間平均気温は11.2度と東北地方では比較的温暖な気候であり、積雪も内陸部より少ない。
江戸時代中期、釜石西部の大橋で磁鉄鉱が見つかった。その後、大島高任が従来の砂鉄ではなく、鉄鉱石を原料とする洋式高炉を築き、1857年に日本で初めて銑鉄の製造に成功した。以来、釜石は「鉄の街」として急速に発展する。
太平洋戦争末期、製鉄所は連合軍による艦砲射撃の標的となる。壊滅的な打撃を受けたものの、戦後は鉄鋼産業が高度成長の波に乗り、「北の鉄人」こと新日鉄釜石ラグビー部(現在はクラブチーム「釜石シーウェイブス」)は日本選手権7連覇。釜石市の人口も最盛期には9万2000人に達し、「鉄と魚とラグビーの街」として繁栄した。
しかし、その後のグローバル化の波には抗し切れず、新日鉄は1989年に高炉の火を消し、鉄鋼の一貫生産を中止。街では「鉄冷え」との闘いが始まった。今も新日鉄住金は釜石製鉄所を維持しているが、線材の生産にとどまり、従業員も約220人(本体のみ)にすぎない。
釜石市の人口は最盛期の4割まで激減する一方で、市民の3人に1人が65歳以上のお年寄りになった。市は困難な復興事業を加速させると同時に、「企業城下町」から脱却し、少子高齢化も克服しなくてはならない。
野田市長は「一本足打法」だった地元経済の構造改革を打ちだし、バランスのとれた産業構造への転換を急いでいる。具体的には、①高齢者包括ケアによる、安心感のある街づくり②太陽光発電など再生可能エネルギーの拡大による、エネルギー供給基地化③コバルト合金の生産や水産業6次化(生産、加工、販売の総合化)などによる、新産業の創出―が釜石の未来を担う。
既に構造改革は芽を出しはじめた。釜石市にトヨタ自動車が協力したオンデマンド型の小型バスが走り、交通の便の悪い仮設住宅の高齢者には貴重な足になっている。市民は登録証を発行してもらった上で、予約すれば希望の停留所・時刻で利用できる。タクシーと路線バスの中間的な公共交通システムであり、運営者は需要に応じて運行を柔軟に変更できるため、過疎地でも効率的な事業が期待されている。
かつて釜石にも街中にショッピングセンター (SC)があったが、その撤退後は市内から大規模商業施設が消えた。このため週末になると、2000台ものマイカーが盛岡市などのデパートやSCまで出掛けるという。これでは貴重な復興資金が市内で循環せず、市外へ流出してしまう。大震災後、市はSC誘致に乗りだし、「イオンタウン釜石」(56店舗、駐車場1240台)が3月14日、新日鉄住金の所有地にオープンした。従業員約620人の7割を、釜石市や近隣市町村の住民から採用したという。
一方、地元商店からは「客をSCに奪われてしまう」「イオンタウンに出店したくても、テナント料が高過ぎる」といった不安や不満が聞こえてくるが、野田市長は「地元での購買率を何とかして引き上げたい。イオンの集客力を販路拡大のチャンスととらえ、やる気のある商業者には業態転換や新商品開発などを積極的に支援する」と市民に訴えている。
このほか、市は「スマートコミュニティ」計画にも着手している。学校や復興住宅などに太陽光パネルを設け、平時でも災害発生時でも電力の自給自足を目指す。また、広域風力発電や木質バイオマス発電といった再生可能エネルギーの市外供給力を増強し、地元雇用の拡大を視野に入れる。また、電力供給者と各家庭を「賢い送電網」(スマートグリッド)で結び、ICT(情報通信技術)をフル活用して節電やCO2排出量の抑制に取り組むという。
しかし、インフラ整備に代表されるハード面の復興だけでは、釜石の未来は拓かれない。都市間競争の時代では、観光やスポーツ、芸術といったソフトパワーが街の命運を握るからだ。市も橋野鉄鉱山のユネスコ世界遺産登録や、日本で開催される2019年ラグビーW杯の試合誘致を目指し、ロビー活動に力を入れはじめた。それを後押しするように、JR東日本が4月12日に「SL銀河」(花巻⇔釜石)の定期運行を始める。NHKドラマ「あまちゃん」の舞台となった三陸鉄道もようやく全線再開する。
震災復興と構造改革を同時に進めている釜石市だが、最大の問題は「人」の確保である。市内に大学がなく、若い人材の大半が市外に流出してしまう。このため、市が頼みとする強力な「助っ人」が、各企業からのボランティア社員である。
リコーから経済同友会経由で市産業振興部に出向中の野村卓哉さん(34)と堀部史郎さん(37)は仮設住宅で暮らしながら、復興事業に取り組んでいる。「仮設住宅から最寄りコンビニまで歩いて45分」「ファストフード店がないから、残業後の夕食は酒も飲まず独り居酒屋で」「朝干した洗濯物が乾く前に凍りつく」―。都会暮らしの長い2人は、赴任当初から戸惑いの連続。それでも顔には充実感があふれている。
野村さんは妻を東京に残して単身赴任。「(宮城県仙台市の)東北大出身だから、大震災直後から居ても立ってもいられず、被災地で貢献したかった。特許関連の仕事で身につけた戦略的思考が、復興事業でも役立っている」という。堀部さんはリコーでコンピューターのプログラマーとして働いていたが、同社が立ち上げた復興支援室への異動を志願。当初、釜石市内には寝る場所がなく、車で2時間かけて岩手県奥州市から市役所まで毎日通い続けた。「仕事相手がパソコンから人、それも復興に挑む市民に変わり、刺激的な勉強をさせてもらっている」―
経済同友会が特別協力し、人材育成と復興計画の具体化に取り組む「東北未来創造イニシアティブ」の運営が、この2人の重要なミッションである。その人材育成道場「未来創造塾」の門をたたいた塾生の「伴走者」となり、野村さんと堀部さんは釜石の未来を担う若手経営者10人と体を張って付き合う。徹夜も辞さず議論を重ね、誉めたり、怒ったり、笑ったり、泣いたり...
2014年3月1日、第一期生の卒塾式が釜石市内で開かれた。卒業論文となる事業構想の発表では、「焼き魚のアジア輸出」「和菓子で世界中に笑顔を創造」「釜石をSOBA(蕎麦)の里に」「三陸産ホタテ貝のブランド化」「街の(空き地、空き家、墓の)見守り隊」...。いずれの構想にも故郷への強烈な愛情と危機感があふれており、式会場では称賛する拍手が鳴り響いた。
塾長の大山健太郎アイリスオーヤマ社長が「一人の力は大きくなくても、10人が束になれば、釜石が変わっていく第一歩になる」、副塾長の高橋真裕・岩手銀行頭取は「進むべきか退くべきか迷ったら、進んでいくべきだ。なぜなら失敗したとしても、得るものがあるからだ」とそれぞれエールを送った。そして最後に、野田市長が第一期生を「釜石維新の志士」と命名した。「志士」一人ひとりの夢が実現する時、この街もよみがえり、陽はまた昇る。
(写真)筆者 ※提供分除く
中野 哲也