2016年03月25日
地域再生
HeadLine 編集長
中野 哲也
2011年3月11日の東日本大震災では、1万5000人を超える無辜(むこ)の命が奪われ、2500人以上が行方不明になった。それから5年が過ぎても、被災地では今なお多くの市民が仮設住宅での生活を余儀なくされ、将来への不安を抱えたままだ。中でも三陸海岸南部の陸前高田市(岩手県)は、巨大津波によって中心部が壊滅した結果、復興事業が困難を極める。全国的に3.11の風化を否めないが、この街にとっては現実以外の何物でもない。
東北新幹線の一ノ関駅(岩手県一関市)からJR大船渡線で約1時間20分、気仙沼駅(宮城県気仙沼市)で途中下車した。ここで線路が寸断されているからだ。大震災で駅舎や橋梁が流失し、気仙沼~盛(岩手県大船渡市)間は不通になったまま。過疎化が加速するこの地域では、復旧工事に数百億円を投じても採算が取れない。このため、JR東日本はBRT(BusRapid Transit =バス高速輸送システム)を導入した。線路を撤去した専用道の区間は信号や渋滞が無いため、バスは列車並みのスピードで快走する。一般道の区間では遅くなってしまうが、鉄道に比べて駅(=停留所)や運行本数を容易に増やせるという利点がある。
気仙沼駅からBRTに乗り、陸前高田市内に入った。大震災前、太平洋に臨む高田松原は2㎞にわたって白い砂浜が続き、東北有数の海水浴場としてにぎわい、日本百景の一つにも数えられていた。だが、3.11の巨大津波によって7万本の松の木が流失し、高田松原は消滅した。この中で、高さ約27.5メートル、樹齢約170年という老木が唯一生き残り、「奇跡の一本松」と名付けられた。陸前高田市は浸水高で最大17.6メートルもの津波に襲われ、死者・行方不明者が1700人を超えた。市街地は壊滅状態になり、市外への転出者が急増。その結果、大震災前に2万4000人を数えた人口は、今や2万人を切っている(国勢調査の速報値)。打ちひしがれた市民にとって、奇跡の一本松は復興を目指す上で精神的な支柱となった。
市内を歩き始めると、3.11から時が止まっている光景に何度も出会う。今泉天満宮の杉の巨木は驚異的な生命力を発揮したが、神社の碑はなぎ倒されたまま。内部が滅茶苦茶に破壊された「道の駅・高田松原」は、今も水の恐怖を生々しく伝える。気仙中学校(当時の生徒数93人)は屋上まで津波に呑み込まれたが、生徒は高台に逃げて全員が無事だった。その朽ち果てた校舎は、日常の防災教育と危機管理の大切さを教えてくれる。総延長3kmのベルトコンベヤーは既に使命を終えたが、膨大な量の土砂を運んで市街地のかさ上げ工事に大いに貢献した。
3.11で壊滅した陸前高田市では今、海岸部で東京湾平均海面から最大12.5メートルの防潮堤の整備が、市街地では最大12メートルのかさ上げ工事が進められている。ただ、いずれも難工事で長い時間を要するため、5年経っても中心部は広大な「空き地」のように見える。高田、今泉両地区の土地298.5ha(東京ドーム約64個分)には約1122億円が投じられ、区画整理事業が進行している。この両地区に2120戸、約5900人が居住する計画だ。その一方で、タクシー運転手に聞くと、「巨大な防潮堤によって海が見えなくなり、津波が来ても目で確認できないのではないかと不安に思う。それに広大な空き地は本当に(住宅や商店などで)埋まるのだろうか」と複雑な表情を浮かべた。
地元で観光ガイド歴15年の新沼岳志さん(70)は「語り部」として巨大津波の恐ろしさを伝えている。3.11当時は市民会館で確定申告をしていたが、「ガラガラガラ...」という激しい揺れを感じると、一目散にマイカーで帰宅した。「自宅は高台にあったが、築100年以上の古民家のため、妻が下敷きになったのではないか...」と案じ、背筋が凍ったという。幸い、妻も自宅も無事だった。しかし高台から見下ろすと、市街地は見たこともない黒い激流に呑み込まれ、大量の煙があちこちから上がっていた。
新沼さんは多くの友人や親類を失い、絶望の淵に突き落とされた。「こんな状態で観光客なんか来るはずもない」と思い、ガイドを廃業しようと考えた。3カ月後、旧知の観光会社から「大震災の『語り部』をやりませんか」と促され、悩み抜いた末に「地元のためになるのなら...」と立ち上がった。だが、瓦礫(がれき)だらけの市街地には客を案内できず、山の頂上に連れて行って懸命にガイドを続けた。話し始めると涙があふれ出し、言葉にならない。そして客も涙を流す―。その繰り返しだった。
新沼さんは「市民が歯を食いしばり、あきらめないで復興に取り組めた原動力は、手弁当で来てくれた国内外のボランティアの皆さんです。そのもの凄いパワーに市民が動かされました」と振り返る。また、自衛隊の尽力にも頭が下がったという。「瓦礫からの救出作業や遺体処理は自衛隊しかできません」―。今、新沼さんは全国各地から講演を頼まれ、愛して止まない故郷を懸命にPRしている。「陸前高田は海、山、川すべての幸に恵まれ、緯度が高いわりには寒くないし、雪もほとんど積もりません。そして何より人情に厚い土地柄なんです」―
陸前高田市の戸羽太市長(51)は2011年2月に初当選。その翌月、東日本大震災に見舞われ、最愛の妻を失くした。一瞬にして壊滅した街の復興に向け、寝食を忘れて陣頭指揮を執りながら、子ども二人の父として奮闘を続ける。戸羽市長にインタビューを行い、3.11から5年間の総括や街の再生ビジョンなどをうかがった(2016年2月4日取材)。
――まず、この5年間を総括していただけますか。
個人的には様々な後悔がたくさんあります。大震災は市長就任直後の出来事ですから、当選さえしなければ、家族は犠牲にならなくて済んだのではないか...。モヤモヤしたものが消えない5年間でした。多数の市民が犠牲になり、もっと速く復興を進めたかった。しかし国も態勢が整っておらず、しかも「既存の法律の中でやりなさい」と言うばかり。ジレンマあるいは歯がゆさとの戦いでした。長いようで短く、短いようで長い5年間です。
当初、自分を励ますためにも、「明日が見えない。けれども、2~3年後の陸前高田は絶対に良くなっているはずだ」と信じ、復興に取り組みました。しかし、そのような私のイメージ通りにはいきませんでした。「5年も経てば、少なくとも住む所ぐらいはできているだろう」という思いでやってきましたが、現実にはなかなか...
※注=2015年10月末の応急仮設住宅の入居者数は3411人(最大時から2224人減)
――復興を進める上で最大の問題点は何でしたか。
被災地のやろうとすることが、(永田町・霞が関に)うまく伝わらないシステムです。はっきり言うと、国は地方自治体を100%は信用していません。国は地方分権を掲げる一方で、「自治体にお金と権限を預けて大丈夫なのか」と疑っています。だから、国の関与が中途半端になります。私は「国がそこまで言うなら、好きなようにやってくださいよ」と申し上げたことがあります。すると、「いやそうじゃない。住民の皆さんの意向に沿って国は寄り添うだけ」という。「それじゃ、こういうことがしたい」と要望すると、「いや無理です。ダメですよ」―
ダメならダメでいいんです。それならその理由を明らかにしてほしい。「今の法律の枠内でできる方法を一緒に考えてくれませんか」ということなのです。被災地からすると、「ほれみろ、国は『寄り添う』なんて言っているが、本当にそんな気持ちがあるのか」という絶望感でがっくりする。「だったら、最初から期待なんか持たせるな!」と言いたくなります。しかも、ちょっとした話で私も職員も(列車を乗り継いで)6時間かけて上京しなくてはなりません。
安倍晋三首相にも申し上げてきたのは、「被災地の立場でものを考えてください」ということです。そうすれば、(政策や事業の)優先順位も見えてきます。「自分の親が陸前高田で被災して仮設住宅にいるとしたら、何が求められているだろう」と考えてくれれば、自ずと想像できるはずです。大きなギャップというより、ちょっとした言葉足らずなどが、(国と被災地が)しっくりいかなかった大きな要因ではないかと思います。
――今、被災地で最も必要なものは。
もう5年になり、復興事業で手を付けられていないものは基本的にありません。今、政府に対しては、「なぜ次に備えないのですか」と申し上げています。南海トラフ地震などの発生が懸念されているからです。皆さん、5年経った陸前高田を見てください。スーパーゼネコンが最先端の技術を投じているのに、これしか復興が進んでいません。「やはり何か制度に問題があり、復興の妨げになった法律がある」と分かったから、それを今のうちに炙り出して南海トラフに備えようということです。そうしなければ、東日本大震災で亡くなった人々は犬死にじゃないですか。国には真剣に考えていただきたい。
――「集中復興期間」が2015年度末で終了し、2016年度から5年間の「復興・創生期間」では国が被災自治体に一部財政負担を求めることになりましたが。
5年で復興が終わった自治体もありますが、それは「軽傷」だったからです。一方、われわれは「意識不明の重体」から少しずつ復活している状態。傷が深くゼロからのスタートを余儀なくされた自治体に、どうして国は負担を求めるのでしょうか。私は「名医が来て大手術しても、助かるかどうか分からない。傷に塩を塗るようなものではないか」と主張したのですが...。これからは「創生期間」というが、やはり国は3.11を過去の話と認識しているのではないでしょうか。その一方で、5年も経つのにボランティアで来てくださる方がたくさんいます。本当にありがたく思い
ます。
――他の被災地に比べると、陸前高田市の復興は難航しているように見えますが。
難航しているのではなく、やられ方が他とは全然違うのです。(リアス式海岸では珍しく広い平野があだになり)市街地では民家が一軒も残っていません。(広田湾には)島がなくて湾口も広いため、もの凄い津波が襲いかかり、気仙川を8キロも上っていきました。土地を最大12メートルかさ上げし、(東京湾平均海面から)最大12.5メートルの防潮堤も整備します。コンパクトな街づくりを進めると同時に、3.11級の巨大津波が来ても絶対に家屋が浸水しないようにします。しかし、区画整理事業には長い時間がかかります。2000人に上る地権者一人ひとりに対し、職員が全国を飛び回って「どこに住みたいですか」と聞いているところです。
――なぜ復興計画を8年間と決めたのですか。
正直言うと、根拠はありません。家がすべてなくなり、瓦礫が積み上がり、戦場の跡のような光景が広がりました。その中で、号泣するおじいちゃんとおばあちゃんに「あと10年頑張ろう」と言えますか。逆に、5年と言ったらウソになります。だから、8年なんです。時間がかかればかかるほど、市民はあきらめの境地になります。国にもそういう視点を持ってほしいと切に願います。
――今後、どのような産業や雇用を創っていきますか。
高田松原が流失した海岸沿いに津波復興祈念公園を整備し、観光・防災教育の拠点にします。その中には国の追悼・祈念施設も造られ、将来は3.11の式典も開かれる予定です。(原爆の爆心地に設けられた)長崎市の平和公園のイメージになります。奇跡の一本松・ユースホステルや気仙中学校、雇用促進住宅、道の駅などを遺構として保存し、「どの地域にもこういう事が起こり得る」と伝えていきます。既に、大手企業が陸前高田を新人教育などの開催地に選んでくれ、研修を実施しています。
また、「ノーマライゼーション(正常化)という言葉の要らない街」をつくります。日本の中では、障がい者や高齢者、言葉の分からない外国人、妊婦といった社会的弱者に対する扱いが非常に悪い。陸前高田は分け隔てなく、だれとでも仲良くなれる街を目指します。街が壊滅してしまったので、歩道も公共施設も店舗もゼロから造ることができますから。今までは「うちは狭いから、車椅子の人はごめんなさいね」と言っていた店も、今後は許されません。人が訪ねてくる所にすべて筆談ボードを置くよう、行政も応援していきます。
昨年7月、ふるさと納税を再開し、御礼の品の梱包作業を知的障がい者に行っていただいています。それまで1カ月1万5000円しかもらえなかった手当を、最低5万円に引き上げます。家族の中で、障がい者が「自分の食べる分ぐらい、自分で稼いでいるよ」と胸を張って言えるようにしたいのです。昨年末、ボーナスが出たら、みんなすごく喜んでくれました。地元ではリンゴを生産していますが、担い手の大半が高齢者です。今後、障がい者やシングルマザーに2~3年ぐらい住んでもらい、手伝っていただきたい。自分の人生を考えられる機会を提供したいのです。
最終的な私の夢は、すべての人が街へ出られるようにすることです。日本の障がい者は外に出ない・出られない状態にあります。買い物や図書館に行くとか、当たり前のことが当たり前にできるようにしたいのです。例えば、東京で悩みを抱えている人に対し、「そんなに悩んでいるなら、1週間ぐらい陸前高田にいらっしゃい」と声を掛けます。来てみたら、障がい者がニコニコしているし、おじいちゃんやおばあちゃんも何だか分からないけど元気一杯。「俺の悩みなんて大したことなかった。ボロボロのどん底からでも、人間は立ち上がれるんだ。もう一回頑張ってみようか...」―。そう思ってもらえる街にしたいのです。
(写真)筆者 PENTAX K-S2使用
中野 哲也