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ネコも歩かぬシャッター街に奇跡が... 日南市(宮崎県)

コンパクトシティが地方を救う (第10回)

2017年03月24日

地域再生

HeadLine 編集長
中野 哲也

 いつの時代も人間にとって海は特別な存在。食の源として恵みを与えてくれる一方で、時には荒れ狂って命を脅かす。だから古代から人々は海を畏れ、祈りを捧げてきた。鵜戸神宮(宮崎県日南市)はそんな海洋信仰の聖地の一つだ。荒波と奇岩に迎えられながら、太平洋に突き出す磯の上の参道を歩く。

 鵜戸と書いて「うど」と読み、空(うつ)+洞(うろ)が語源とされる。実際、鵜戸神宮の本殿は洞窟の中にどっしりと鎮座していた。創建は古事記・日本書紀の時代にさかのぼるという。現代の土木技術をもってしても難工事だったに違いないが、一体どうやって千数百年も前に造られたのか―。その謎とロマンに吸い寄せられるように、鮮やかな朱塗りの本殿を一目見ようと参拝客が国内外からやって来る。

荒波と奇岩が連続する参道

洞窟に鎮座する鵜戸神宮本殿

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「鬼の洗濯板」と呼ばれる液状岩が 不思議な日南海岸

 宮崎県南部に位置する日南市は、「神話の時代」からの長い歴史と文化を誇る。市内の飫肥(おび)は江戸時代に伊東氏の城下町として栄えた。「九州の小京都」といわれるように、飫肥城大手門や武家屋敷通りなどが美しい街並みを形成し、タイムスリップしたような感覚を味わえる。

  飫肥藩は財政難を乗り切るため、山野にスギの植林を進め、強度と機能性が抜群の特産品「飫肥杉」に育て上げた。また、次世代を担う人材教育に力を入れ、その藩校から小村寿太郎らを輩出した。明治維新直後、小村は政府の海外留学生に選ばれて渡米、ハーバード大学で法律を学び、帰国後は外交官から外相に就任。日露戦争後の1905年、日本全権としてロシアと厳しい交渉に当たる。困難を乗り越えてポーツマス条約の調印に成功。日本外交の礎を築いて世界史に名を遺す。

飫肥杉で復元された大手門

小村寿太郎の銅像

 一方、市内の油津(あぶらつ)は天然の良港。江戸時代は飫肥藩が船倉を置き、堀川運河を造って飫肥杉を港まで輸送した。明治以降、油津は漁業基地として繁栄し、昭和初期はマグロ景気に沸く。赤レンガ館などが往時の勢いを今に伝え、中でも1932年に建てられた銅板葺きの「杉村金物本店」は圧倒的な存在感を示す。今なお現役の金物店であり、店内は昭和の道具が並んでいてタイムカプセルのようだ。幾多の台風被害を乗り越え、行政から補助金も受けず、3階建て店舗を80年以上保存してきた店の努力に頭が下がる。

堀川運河

杉村金物本店

 日南市は広域合併の先駆けであり、1950年に飫肥、油津、吾田(あがた)の各町と東郷村が合併して誕生。その後も何度かの町村編入を経て、2009年に平成の大合併で北郷(きたごう)、南郷(なんごう)の両町と一緒になり、今の(新)日南市に至る。北郷は「美人の湯」と森の街であり、南郷は一本釣りカツオで日本一の漁獲量を誇る。市役所は市域のほぼ中央に位置する吾田にあるが、市は旧町村の個性を尊重するネットワーク型コンパクトシティを目指している。

20170323_キンカンとカツオ.png特産のキンカンと人気急上昇「カツオ炙り重」



 広域合併によって面積は536㎢になり、東京・山手線内側の8個分以上に拡大。しかし、他の地方自治体と同じく少子高齢化の荒波に呑み込まれた。人口は1950年代のピーク時から4割も減り、今や5.3万人。その一方で、65歳以上の高齢化率が35%を超える。

 JR日南線(宮崎県・南宮崎~鹿児島県・志布志)は市内を走る唯一の鉄道だが、利用者はピーク時の約1割まで減った。通学高校生やお年寄りには不可欠の「足」だが、旧国鉄時代は廃線の危機に直面し、辛うじて乗り切った。

 しかし昨年、JR九州が上場したことから、株主から赤字路線を問題視する声が強まる恐れが出てきた。危機感を強めた日南市は同社との関係強化を目指し、厳しい財政事情の中で1000万円の予算を組んで株式を取得した。また、市職員が宮崎市内の県庁などに出張する際は、公用車ではなくJRを原則使うように改めた。行政が先頭に立ち、市民に日南線の利用を訴えている。

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市民の「足」JR日南線

 中心市街地の油津商店街は1965年にピークを迎え、百貨店やスーパーのほか、最先端のアーケードの下に80店舗が軒を連ねた。ところがその後、日南市外への人口流出が加速した上、大店法(大規模小売店舗法)の規制緩和で市の郊外や宮崎市に商業の中心が移り、油津商店街の衰退が加速する。石油ショックやバブル崩壊で衰退に拍車が掛かり、ついには6店舗まで減少。スーパーの閉店後、地元の人は「ネコも歩かぬシャッター街」と呼んで寄り付かなくなったという。

 40年近くにわたり、一人の男がこの商店街の盛衰に真正面から向き合っていた。黒田泰裕さん(63)は日南市出身で鹿児島大学に進学。大手証券会社から就職内定をもらい、「東京でバリバリ働くぞ」と夢を膨らませる。だが入社1カ月前の1978年3月、入社前研修に励んでいた黒田さんの元に突然、実家から連絡が...。「お父さんが倒れた。すぐに帰って来い」―

 幸い、父親は一命をとりとめたが、黒田さんに「このまま実家に残ってくれ」―。黒田さんは「大学の同級生は証券会社や銀行でこれから活躍するのに、なんで俺だけが...」と抵抗したが、最終的に親の願いに従う。地元は就職難だったが、偶然にも日南商工会議所に空席が出る。以来、2014年末に事務局長で定年退職するまで、商議所一筋で働き続けた。

  黒田さんは「当初は全くやる気がありませんでした」と振り返るが、故郷の衰退を目の当たりにしながら、次第に街づくりに使命感を抱く。そして、「このままでは日南市は"消滅都市"になってしまう」と危機感を募らせ、ついに立ち上がった。2014年3月、黒田さんと「九州パンケーキ」で大成功を収めた経営者の村岡浩司さん、日南市が月給90万円で公募した「再生請負人」木藤亮太さんの三人が30万円ずつ出資し、街づくり会社「油津応援団」を創設したのだ。

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シャッター街と黒田さん(右)、木藤さん(中)村岡さん(左) (提供)油津応援団

 まず手始めに、応援団はシャッター街で15年前に閉店した喫茶店に目を付けた。コンセプトは単なるリフォーム(改築)ではなく、新たな価値を創造するリノベーション(刷新)。世代を超えてコミュニケーションを楽しめるカフェ「アブラツコーヒー」として再生させ、応援団が直営した。2014年4月のオープン後、浮き沈みはあったが、今では月商1500万円で黒字が定着する。

 この成功体験が起爆剤となり、旧呉服店がモダンな豆腐料理店に生まれ変わる。次に、応援団の主導で撤退スーパーの広い跡地はモールになり、多世代交流施設「油津Yotten」と屋台村「あぶらつ食堂」がオープン。一人でも経営できるコンテナ型ガーデンも登場し、お洒落なスイーツやパンの店などが入居した。

商店街復活の起爆剤「アブラツコーヒー」

和洋中の逸品を味わえる「あぶらつ食堂」

 ところで、冬の日南市にはキラーコンテンツがある。毎年、プロ野球の広島東洋カープや埼玉西武ライオンズがキャンプ地としているのだ。中でもカープのキャンプは50年以上の歴史があり、油津商店街から歩いて5分ほどの天福球場で汗を流す。昨年の25年ぶり優勝の効果により、今年の日南キャンプへの来訪客は1.5倍の8.5万人に上り、日南市は経済効果を6億円規模と試算する。

 ただ、球場で練習を見学した後、ファンが集う場がない。そこで応援団は「油津Yotten」の一角に「油津カープ館」を開設。カープ応援歌を一年中流し、新旧スター選手のサイン入りユニフォームなどを展示する。ネットでは売らない限定Tシャツなど、オリジナルグッズがキャンプ期間中は飛ぶように売れたという。カープファンの「聖地」となるよう、球場から商店街に通じる道を横断歩道まで赤く染め上げる徹底ぶりだ。

20170323_23-カープ館.jpg油津カープ館

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赤い道

 応援団の努力が実り、6つにまで激減していた商店街の店舗数は30近くにまで復活し、人通りも2.5~3倍に増えた。黒田さんは振り返る。「わずか3年でこれほどまでに変わるとは...。奇跡が起きたんです」―。出資を希望する市民株主も続々と名乗りを上げ、資本金は90万円から1600万円に。現在は黒田さんが応援団の代表取締役を務め、「油津スタイルを全国の商店街に広めていきたい!」と還暦過ぎてなお意気軒昂である。

 油津商店街に奇跡は起こったが、日南市はそれで満足していない。依然として人口減少に歯止めが掛からないからだ。そこで木藤さんと同じく民間から市に招聘された「ヨソモノ」が、商工政策課マーケティング専門官の田鹿倫基(たじか・ともき=32)さんである。田鹿さんは地元の宮崎大学を卒業後、リクルートに入社。宮崎県内の町興しにボランティアとして関わる中で、当時県庁に勤務していた﨑田恭平・現日南市長と出会ったという。

 田鹿さんは﨑田市長から「外貨」獲得や街のブランディングなどを任され、雇用創出に奮闘を続ける。既にIT系企業10社が進出を決定し、60人分の雇用効果をもたらすという。油津商店街で勤務してくれれば、週末に比べてぐんと減ってしまう平日の通行量・消費額の下支えも期待できる。

20170323_25-2田鹿さん.jpgマーケティング専門官の田鹿さん


 また今年2月、現役の名古屋大学生でやはり「ヨソモノ」の奥田慎平さん(21)が経営するスポーツバー&ホステル「fan!」も商店街にオープンし、地元市民とIT企業の出張者、カープファン、外国人観光客などとの交流の場が新たに生まれた。

 進出企業には、顧客をサポートするチャットセンターを開設するところが多い。東京と比較すると、家賃が7分の1程度、人件費も約8割の水準で済むという。ただし、人材の安売りはしない。田鹿さんは「正社員・月給18万円以上・賞与ありが原則です。条件が悪ければ、入社しても転職してしまいますから」と話す。

20170323_26-2fan!.jpg現役名大生の奥田さんが経営する「fan!」

 

 日南市を持続可能な街にするために、田鹿さんは「ドラム缶型(=各世代の人口が等しい)の人口ピラミッドにしなくてはなりません」と指摘する。そのためには、①半分以上が転出する高卒者に少しでも留まってもらい、社会減にブレーキを掛ける②20~30歳代の地元出身者にUターンしてもらう③初婚年齢引き下げや子育て支援、世帯所得の引き上げによって出生数を増やす―といった施策が必要になるという。

 そのマーケティングの哲学を聞くと、「ゆるキャラなどで同じ土俵に載らない、つまり他の自治体とケンカしないことです。『戦略』とは『戦(いくさ)を略(はぶく)』という意味じゃないですか。ほかがやらないことをやります」と言い切った。

 このように「ヨソモノ」が触媒となり、市民の意識を少しずつ変革しながら、日南市は挑戦を続ける。その陣頭指揮を執る﨑田恭平市長(37)は田鹿さんら「ヨソモノ」を行政と民間企業の間に入る「通訳者」と呼び、「日南市役所の最大の強み」と話す。

 また、﨑田市長は「日本一企業と組みやすい市」を標榜する。決して豊かではない財政の下、民間企業から知恵・活力・資金を引き出しながら、持続可能な街づくりを進めていくという。最近もディスプレイ業界大手の乃村工藝社と「地域活性化に関する包括的連携協定」を結んだ。「城下町・飫肥の観光地としての魅力を最大限に引き出すため、街全体を空間として捉えてプロデュースしていただきたい」と期待する。

20170323_28-差替え市長.jpg﨑田恭平市長


 日南市の日照時間は国内トップクラスであり、冬でも暖かくて過ごしやすい。海や山の幸は豊富だし、城下町や温泉、大企業の工場もある。何でも揃っているだけに、市民気質はおっとり。今後は恵まれた資源を活用しながら、「ヨソモノ」がこの街の潜在能力をどれだけ引き出すのか―。将来再訪した時の変化に期待を膨らませながら、日南線・北郷駅から一両編成の列車に乗り込んだ。

※リンク先:日南市役所HP(https://www.city.nichinan.lg.jp/

(写真) 筆者 PENTAX K-S2 使用

中野 哲也

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