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リンゴ王国がソフトパワーで目指す「観都」/弘前市(青森県)

コンパクトシティが地方を救う (第12回)

2017年10月02日

地域再生

HeadLine 編集長
中野 哲也

 人類の長い歴史の中で最も身近な果物、それはリンゴかもしれない。旧約聖書において「知恵の樹」として登場し、英語圏ではaで始まる「Apple」が最初に習う単語になる。このため、リンゴには知性や知的といったイメージが強く、創造者に愛されてきた。例えば、アップル・レコードを設立したビートルズは音楽によって革命を起こした。スティーブ・ジョブズが築いたアップル・コンピューター(現アップル)は今、携帯電話やパソコンで世界を席巻する。

 一方、日本では古くから和リンゴの花が愛され、食用というより仏前の供え物として大切に扱われてきた。江戸時代末期に今の西洋リンゴの苗木が米国から伝来すると、明治政府は寒冷地の農業振興策としてその苗木を各地に送る。それに先立つ1875(明治8)年のクリスマス、弘前市(青森県)では米国人宣教師が生徒にリンゴを振る舞っていた。以来、旧藩士の屋敷畑で栽培が広がり、改良の上に改良が重ねられ、今や弘前市は全国生産量の2割を占め、日本一の「リンゴ王国」に発展を遂げた。

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 弘前市葛西憲之市長にインタビューすると、「日本一というより、クオリティーでは世界一のリンゴ」と言い切った。市は「りんご王国推進会議」を設置するなど、リンゴの観光資源化や内需・輸出拡大に努めている。とりわけ台湾で人気に火が付き、市長自ら現地の百貨店に乗り込んで6年前からプロモーションを展開中だ。また、市内では50店舗以上がアップルパイを販売し、そのガイドマップを制作するという熱の入れようだ。地元産のシードル(リンゴ酒)も有望視されており、弘前市りんご公園の一角に醸造所も設けた。

20171002_02.jpg弘前市の葛西憲之市長

20171002_03.jpg弘前市りんご公園 (提供)弘前市

20171002_04.jpg市内50店以上でアップルパイを販売

 弘前市の誇るキラーコンテンツはリンゴに限らない。東京ドーム10個分を超える約50ヘクタールの弘前公園には、52品種・約2600本ものサクラが植えられている。リンゴ農家の技術を導入した独特の剪定(せんてい)方式に支えられ、樹齢100年超のソメイヨシノは400本を数える。弘前城外濠の水面をサクラの花びらが覆い尽くす「花筏(はないかだ)」を一目見ようと国内外から観光客が詰め掛け、今春の「弘前さくらまつり」期間中の人出は251万人に達した。

 弘前市は「桜文化の情報発信基地」として国内外の知名度を上げるため、地道な努力を積み重ねてきた。例えば、中国・武漢市に対しては、サクラの木を贈り、その難しい手入れを担う「桜守」も派遣。今では中国一とも称される桜園が誕生したという。また、今年1月就航した定期チャーター便の効果もあり、中国から弘前へツアー客が訪れるようになり、葛西市長の「桜外交」は結果を出し始めた。来春、弘前公園のさくらまつりは100周年を迎え、知名度の更なる向上を期待する。

20171002_05.jpg弘前さくらまつり(提供)弘前市

 この弘前公園の中心が弘前城である。全国に12しか残っていない、江戸時代以前からの現存天守の一つである。リンゴやサクラと並ぶ弘前市のキラーコンテンツだが、近年危機に直面した。1811年に完成した現在の天守が傾き、本丸の石垣も膨らむなど老朽化が深刻化していたのだ。石垣を修理するためには巨大な天守を移動させる必要があり、市は工事期間中に貴重な観光コンテンツを失ってしまう...

 葛西市長は悩みに悩み抜いた末、決断を下した。天守の移動や石垣の修理といった全工程を見える化し、イベント開催によって観光資源にするというものだ。いわば「逆転の発想」で危機を好機に変えたのである。目論見はズバリ当たり、天守を持ち上げてゆっくりゆっくり仮天守台に移動させるという作業(曳屋=ひきや)が国内外で大きな話題に。米欧の有力メディアも「天守が動く」と驚きをもって盛んに報道し、葛西市長は「25億円規模の宣伝効果」と試算する。現在、移動後の天守はどっしりと地面に鎮座し、作りかけの巨大なプラモデルのようにも見える。2020年には修復工事が終わり、元の位置に戻されるという。

20171002_06.jpg「曳屋」で移動した現在の天守

20171002_07.jpg修復工事中の本丸石垣

 弘前城を計画したのは、津軽地方を統一した津軽為信(ためのぶ)。2代藩主・信枚(のぶひら)がそれを受け継ぎ、1611年に完成した。城を中心とする緻密な都市計画によって街づくりが進められ、それに基づいて寺社や家臣団、商人などが移住する。例えば、弘前城の南西には防衛拠点として33もの曹洞宗の禅寺が集められ、非常に珍しい「禅林街」が今も健在だ。また、4代藩主・信政(のぶまさ)の時代に建立された最勝院の五重塔は、高さ25.4メートルの威容と華やかさを誇り、観る者を圧倒する。

津軽為信の像

高さ25.4メートル、最勝院の五重塔

全国でも珍しい「禅林街」と長勝寺の三門

 津軽藩は優れた武家文化を育んだ。今回、その伝統を受け継ぐ匠(たくみ)を取材する機会をいただいた。この二唐(にがら)刃物鍛造所(弘前市金属町)は、およそ350年前に津軽藩から刀作りを拝命した鍛冶の名門だ。今は刀鍛冶7代目の吉澤俊寿さん(59)と8代目の剛さん(30)の親子が門外不出の製造技術を守り、「良品は声無くして人を呼ぶ」という家訓を信じて精進を重ねる。

 津軽地方をはじめ北東北では古代から製鉄が盛んであり、奈良・平安時代の鉄製刀も多数出土する。江戸時代の弘前城下では津軽藩主の庇護の下、100軒以上の鍛冶屋が活躍していたという。だが、明治政府が帯刀を禁止したため、刀鍛冶は存亡の危機に陥る。このため二唐は名刀の切れ味を和包丁などへ応用しながら、幾多の危機を乗り越えて必死にそして見事に生き抜いてきた。

 とりわけ俊寿さんの祖父、5代目の二唐國俊氏は1931年に意を決して東北大学附属金属材料研究所(仙台市)の門をたたく。当時世界最強の永久磁石鋼であるKS鋼を発明した、「鉄鋼の父」こと本多光太郎博士に長期講習生として師事したのだ。そして、國俊氏は江戸時代からの刀鍛冶に最先端の金属理論を導入する。

 第二次大戦中は展覧会で内閣総理大臣賞や陸軍大臣賞などを受賞し、押しも押されもせぬ名匠に。それが仇(あだ)となり、終戦後は駐留米軍に目を付けられた。だが、米軍もその技術力の高さに驚いて一目置くようになり、國俊氏を刀鍛冶や刀剣鑑査官として重用する。

 俊寿さんは「戦後、二唐の包丁は蟹工船など水産業向けに売り上げを伸ばしたが、漁業の衰退とともに売れなくなった」と振り返る。そこで刀鍛冶の技術を応用する形で、建築用の鉄骨製造事業を拡大した。

 例えば、「鍛冶屋が造る鉄骨製カーポート」は2メートルの積雪に耐え、雪国の市民が苦しむ雪降ろしの負担を軽くする。前述した弘前城の曳屋においても、実は二唐の鉄骨技術が大活躍。本丸作業構台や仮天守台の基礎造りを担い、時空を超えて津軽藩主に奉公したというわけだ。

 もちろん、伝統の刃物部門も進化を続けている。俊寿さんは後継ぎに悩んでいたが、長男の剛さんが8代目を引き受け、今は「父子鷹」で伝統を守る。剛さんは「学生時代は小説家になりたかったし、ゲームの企画にも興味があった。東京でフリーター生活を送っていたら、母から『お願いだから後を継いでくれ』と泣いて頼まれ...」―

 連日、剛さんは1200度の炉と向き合い、鋼(はがね)と地鉄を打ち合わせながら、一丁一丁に魂を込めて和包丁を作り続ける。全工程を一人で担い、完成までには数日を要する。同じものは二つとなく、価格は一丁数万円、高級料亭の料理人ならば20万円もの包丁も愛用するという。鋭くキラリと光る和包丁はもはや道具の域を超え、芸術作品のように見える。

 海外では日本食ブームとともに和包丁の人気が高まり、二唐はフランスやドイツの見本市に出展。世界自然遺産・白神山地の滝がつくる波紋からヒントを得た、「暗紋」という二唐独自のデザインは欧米での評価も高い。最近も剛さんは中国・広州の郊外まで出張し、「高級包丁に対する関心をひしひしと感じた」という。今、国内の人口減少に打ち勝つため、輸出に活路を見出そうと静かに闘志を燃やす。

20171002_12.jpg「父子鷹」で守る刀鍛冶

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 刀鍛冶という創業以来のコア技術を大事にする一方で、時代がもたらす技術革新を貪欲に吸収する。こうして二唐は生き抜いてきた。変えてはならない最も大切なものを守りたいからこそ、常に変化を求めて挑戦を続けてきたのだ。老舗(しにせ)といわれる企業に共通する経営哲学だと思う。

 だが、足元では人手不足が難題だ。俊寿さんは「刃物部門は若い人の感性が必要だから、4~5人増やしたい。相手の目を見て話すことができ、やる気さえあれば、わたしが一から鍛え上げる」と全国の若者に刀鍛冶への挑戦を呼びかけている。

20171002_14.jpg製造途中の和包丁

20171002_15.jpg完成した和包丁と独自デザイン「暗紋」

 二唐の鉄骨技術は意外なところでも活躍する。江戸時代から伝承されてきた「弘前ねぷたまつり」(例年8月1日~7日)で、ねぷたの骨組みを製作しているのだ。ねぷたの起源には諸説がある。中でも、暑さが厳しく農作業の忙しい夏に襲って来る睡魔を追い払う「ねむり流し」が始まりという説は興味深い。青森市では「ねぶた」を「ラッセラー」という掛け声で引くが、弘前は「ねぷた」で掛け声は「ヤーヤドー」。しかし、祭りに懸ける熱い思いに変わりはない。寝食を忘れてねぷたを製作し、街中を引いて歩いて燃え尽きる。老いも若きも男も女も、真夏の夜に夢をみる。

20171002_16.jpg20171002_17.jpg20171002_18.jpg「弘前ねぷたまつり」初日(2017年8月1日)

 弘前ねぷたは町会単位で出すのが基本だから、コミュニティを支える子供からお年寄りまでが団結して練り歩く。その手作り感が実に微笑ましい。弘前ねぷたは扇型が主流であり、その正面の「鏡絵」は三国志や水滸伝などの勇将を題材にしたものが多い。対照的に、裏面の「見送り絵」は美人画が主体である。

 弘前のユニークな伝統文化は、「食」の分野でも大切に受け継がれていた。戸田うちわ餅店もこうした老舗の一つである。創業時期は定かでないが、江戸末期から明治初期にさかのぼるという。うちわ餅にはゴマの餡(あん)がたっぷり掛けられ、香ばしい風味が口の中一杯に広がる。餅は絶妙な歯ごたえがあり、伝統の重みを味わえる逸品。これが一つ130円では、何だか申し訳ない気持ちになる。店を支える戸田しのぶさん(60)は「正直言うと、ゴマや砂糖、片栗粉などが値上がりし、この値段では厳しいんです。でも、高校生が買いに来てくれますから...」―

 5年前、この伝統の味に危機が突然襲いかかってきた。5代目が亡くなり、うちわ餅が作れなくなったのである。男の子が三人いたが、上の二人は家を出ており、五代目の妻しのぶさんは目の前が真っ暗に...。すると、三男の当時高校生だった陽介さん(24)が立ち上がり、「オレが店をやるよ」―。津軽海峡を単身渡り、北海道函館市にある製菓の専門学校に入学。菓子作りの基礎を学んで店に帰り、独学でうちわ餅作りに挑んだ。

20171002_19.jpg戸田うちわ餅店とゴマ餡たっぷり「うちわ餅」

 5代目は一冊のノートを陽介さんに遺していた。それが一子相伝のレシピである。陽介さんは読み進むうち、「季節や気温、湿度によって作り方が変わることを知り、びっくりした」―。試行錯誤の末、ようやく満足なうちわ餅を作れるようになり、昨年3月に店を4年ぶりに再開する。その心意気に対し、弘前市民は長い行列でこたえた。

 6代目となった陽介さんは毎日午前3時に起床し、母と二人で精魂込めて200個近くを作り上げる。陽介さんは「地元に愛されてきた店だから、変わることなく続けていきたい」―。趣味の海釣りもしばらくお休み。父の背中を想い出しながら、うちわ餅作りの腕上げに集中する。

20171002_20.jpg戸田うちわ餅店6代目陽介さんと母しのぶさん

 このほかにも市街地には、海山川の新鮮素材を活かし、美味美酒を提供する飲食店が並んでいる。また、「弘前ラーメン」の店はあちこちにあり、懐かしい醬油味でほっと一息つける。

20171002_21.jpg添加物使わずに素材の味を引き出す(芝田商店の相馬映江さん)

20171002_22.jpg「弘前ラーメン」懐かしい醤油味

 江戸時代に城下町として繁栄した弘前市には、明治維新以降、西洋文化が急速に流入した。市街地は大規模な自然災害や戦禍を免れてきたため、今も明治・大正時代のレトロモダンな建物が幾つも健在であり、シャッターを切る回数がいつの間にか増えている。

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旧第五十九銀行本店本館(現青森銀行記念館)

カトリック弘前教会聖堂と郷土色豊かなステンドグラス

20171002_26.jpg日本聖公会弘前昇天教会教会堂

20171002_27.jpg旧弘前市立図書館

20171002_28.jpg商店街のシンボル「一戸時計店」

 日清戦争後の1898年、弘前市には陸軍第八師団が設置され、「軍都」と呼ばれるようになった。同師団が対ロシア開戦に備えて厳冬の青森・八甲田山で雪中行軍訓練を行い、死者199人を出した遭難事件は小説や映画になった。なお大正ロマンの雰囲気が漂う師団長官舎は今、スターバックスコーヒーの店舗として活用されている。

20171002_29.jpg旧陸軍第八師団長官舎(現在はスターバックスコーヒーの店舗)

 弘前市では、津軽藩の藩校を受け継ぐ形で1872年に私立学校・東奥義塾が開校。1920年には旧制弘前高校が設けられ、「学都」としての性格も強めた。今も市内には国立大学法人・弘前大学など六つの高等教育機関が存在する。学生約1万人と教職員約2000人を合わせると、市の人口の6%強を占める。

 これまで紹介してきたように、弘前市はリンゴやサクラ、弘前城、伝統工芸、豊かな食文化、レトロモダン建築といった多彩なコンテンツに恵まれ、時代の変化に対応しながら、城下町→軍都→学都と進化を遂げてきた。

 しかし、弘前市も少子高齢化の荒波からは逃れられない。人口は2016年の17.6万人から2035年には14万人まで減り、逆に65歳以上の高齢化率は29.8%から37.0%まで上昇する見通しだ。このため、市は「日本一のリンゴ産地でも高齢化で担い手が不足し、その高齢者を支える看護師・介護従事者も足らなくなる」(葛西市長)と危機感を募らせ、周辺自治体に先駆けて都市再生特別措置法に基づく「立地適正化計画」を今年3月末に策定した。

 この計画の中で、弘前市は①都市的魅力の中核となる「中心地区」②日常生活を支える都市機能を備えた「地域拠点」③学都の拠点となる「学園地区」―という三種類の「都市機能誘導区域」をバランス良く設定。その周りに居住を維持・誘導すると同時に、各誘導区域間を公共交通ネットワークで結ぶという構想だ。ネットワーク型コンパクトシティを目指すものであり、市はその形が似ていることから「りんごの花」型の都市構造と呼ぶ。葛西市長は「拡散した市街地を元に戻すことは難しい。郊外の拠点も尊重する『コンパクト・プラス・ネットワーク』のほうが、持続可能な社会を実現できるのではないか」と指摘する。

20171002_30.jpg弘前市の中心地区と岩木山

20171002_31.jpg「津軽富士」とも呼ばれる岩木山(標高1625メートル)

20171002_32.jpg利用客数が回復中の弘南鉄道大鰐線(おおわにせん)

20171002_33.jpg真冬の風物詩「雪燈籠まつり」(提供)弘前市

 弘前市がコンパクトシティを志向する背景には、雪国独特の事情もある。毎年の雪降ろしは市民にとって大きな負担であり、高齢者になれば尚更だ。このため、市は除雪から融雪に舵を切り、歩道の雪を溶かしてお年寄りが冬でも気軽に外出できるようにしたい。だがコストを考えると、広い市域全体に整備することは難しい。このため、「できるだけ集積して住んでもらい、融雪ネットワークをしっかり整備する」(葛西市長)というわけだ。

 そして定住人口の減少が不可避ならば、恵まれた各種コンテンツによって国内外から観光客を呼び、交流人口を増やそうというのが弘前市の生き残り戦略である。葛西市長は青森県庁職員時代、縄文時代の大規模集落跡が発見された「三内丸山遺跡」(青森市)の公園整備を担い、有数の観光資源に仕立て上げた実績がある。ソフトパワーの集客力とその重要性を学び、それが弘前市政でもリンゴ王国のPRや弘前城天守移設の見える化などの施策に活かされている。

 今、弘前市は市街地の古い赤レンガ倉庫とその周辺を再開発し、美術館を核とする文化交流施設を2020年に整備する計画を進めている。世界的な現代美術アーティストの奈良美智(なら・よしとも)氏は弘前で生まれ育ち、赤レンガ倉庫の一角にも同氏の作品がある。葛西市長は「弘前のキラーコンテンツは歴史・文化」と強調し、ソフトパワー全開で人口減少時代を乗り切る考えだ。この街は城下町→軍都→学都を経て、次は「観都」として発展する基礎を築き始めた。

再生する赤レンガ倉庫と奈良美智氏の作品

(写真)提供以外は筆者 PENTAX  K-S2

中野 哲也

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※この記事は、2017年9月29日発行のHeadLineに掲載されました。

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