2018年01月16日
地域再生
HeadLine 編集長
中野 哲也
大分県豊後高田(ぶんごたかだ)市は国東(くにさき)半島の北西部にある。江戸時代から商業や農林水産業が盛んで半島一の賑わいをみせていた。ところが、戦後の高度成長が始まると、若年労働力は都会へ大量流出し、典型的な過疎地域に・・・。地元の商店街や商工会議所、行政は街の衰退に危機感を強め、スクラムを組んで再生に乗り出した。試行錯誤の末、寂れていた商店街は昭和30年代(1955~1964年)の懐かしさを観光客に体験してもらう「昭和の町」として息を吹き返し、今では年間35万人以上が訪れるキラーコンテンツになった。
大分空港からバスに乗り、50分ほどで豊後高田バスターミナル(BT)に到着する。乗降場は鉄道の駅ホームのようだ。なぜなら旧宇佐参宮線(大分交通)の駅舎をBTに転用したからだ。1965年の同線廃止以降、豊後高田市は鉄路の無い街なのである。昔の駅改札口を出ると、「豊後高田昭和の町 駅通り商店街」のアーチが歓迎してくれた。それをくぐると空気が変わり、「昭和」の匂いが漂い始める。
江戸時代初め、豊後高田は島原藩の飛び地になり、陣屋(=藩の出張所)が置かれた。太平洋戦争前は蝋(ろう)の原料となる櫨(はぜ)の木が巨万の富をもたらし、全国有数の長者も出現した。戦後は関西方面に向けて竹やコメなどが盛んに出荷され、昭和30年代の港や商店街、飲食店は大いに賑わう。干潟では海苔(のり)の養殖が盛んであり、山と海の幸がこの街を支えた。現在の豊後高田市全域の人口は約2万2000人だが、最盛期には5万人を超えていた。
ところが、高度成長によって戦後生まれのベビーブーマー世代が街を去り始めると、豊後高田は急速に衰えていく。干拓事業によって干潟が消え、海苔養殖をはじめ水産業は壊滅状態に陥る。農業も後継者不足が深刻になり、前述したように宇佐参宮線も過疎化とモータリゼーションの波に呑み込まれた。
中心部の商店街ではスーパーが撤退し、二つの銀行の支店も国道沿いに移転。人通りはめっきり減り、廃業に追い込まれる商店も...。祭りとタイアップした売り出しや各種イベント、朝市の定期開催なども集客面では不発に終わり、商店街の3分の2がシャッターを下ろす苦境に陥った。「人よりも犬・猫のほうが多い」と揶揄されるほど衰退してしまったのである。
1980年代後半、日本列島がバブルに沸き立つ中、豊後高田の商店街も復活に向けて動き出した。だが...大失敗に終わった。豊後高田市の河野真一・商工観光課長は「『商業活性化構想』を外部に委託して策定してもらったが、街の身の丈を超える大掛かりな構想だった」と指摘する。商店街の関係者は原点に返り、「自分たちの街の活性化は自分たちで考える」という結論に達する。そして、三つの方向性を打ち出した。すなわち、①お金を掛けず、大都会を追わない②この街ならではの個性を活かす③商業と観光を一体的に振興する―である。
しかし、既に日本経済のバブルは崩壊しており、商店街再生には強烈な逆風が吹き荒れていた。また、城下町や明治、大正をテーマにした街づくりでは全国にライバルが多数存在するため、勝ち目がない。一方で、豊後高田は「急激に衰退したため、市に再開発する財政余力もなく、商店街は全盛期の昭和30年代のまま"瞬間凍結"の状態が続いていた」(河野氏)―
豊後高田商工会議所が徹底的に調査すると、お金を掛けずに個性を活かして商業と観光の一体的振興を実現するには、最終的に「昭和」しか残らなかった。商店街の建物の70%が昭和30年代以前に建築されていたことが分かり、商店街と商議所、行政が一体となって「レトロモダンな街づくり」を目指すことにした。
こうして「豊後高田昭和の町」プロジェクトが2001年に本格的に始動する。昭和30年代の街並みを整備するに当たり、①昭和の建築再生(昭和の街並み景観をつくる)②昭和の歴史再生=一店一宝(店で眠り続けていた「お宝」を店頭で展示する)③昭和の商品再生=一店一品(昭和を感じさせる店自慢の商品を販売する)④昭和の商人再生(昔ながらの接客でもてなし、「ご案内人」が「昭和の町」の語り部となる)-といった四つの「再生」が掲げられた。「昭和」にマッチするよう修景を施した認定店舗は、当初の7店舗から今では44店舗にまで拡大している。
「ご案内人」の日浦勝彦さんにガイドをお願いし、「昭和の町」を歩き始めた。日浦さんは町をこよなく愛し、隅から隅まで知り尽くす。「かつては本当に犬と猫しか歩いていなかったんです。道幅も狭いままでしょ」―。いつの間にか幼少期にタイムスリップし、漫画「三丁目の夕日」(西岸良平)の世界に引きずり込まれる。商店街は全長550メートルに過ぎないが、「お宝」の山をじっくり見て歩くと丸一日かかりそうだ。
観光拠点となるのが、「昭和ロマン蔵」である。明治から昭和にかけて「大分県一の富豪」と称された野村財閥が、1935年前後に米蔵として築造。当時はコメ1万俵を蓄えていたが、今はリノベーションされて昭和のミュージアムに。おもちゃや駄菓子、民家のタイル貼り流し台など、どれも懐かしいものばかりだ。「昭和の夢町小学校」には木製の机・椅子や黒板が備えられ、先生に叱られた記憶がよみがえる。1時間3100円でレンタルできるから、同窓会での利用もあるという。
「昭和ロマン蔵」から商店街に入ると、前述した「一店一宝」や「一店一品」に目を奪われ、カメラのシャッターを切り続けた。この町で最も古い佐田屋の創業は1694年。醤油や味噌などの醸造業で財を成し、現在は12代目。10代目が札幌農学校(現北海道大学)で学び、この店が日本で初めて「通信販売」を始めた。寒冷地で栽培する甘藍(かんらん、キャベツの別名)を温暖な九州でも育つよう品種改良に成功。郵便で注文を受け付け、その種子を全国に販売したという。
「昭和の町」では地元出身者ばかりではなく、「ソトモノ」も活躍している。餅や煎餅を製造・販売する二代目餅屋清末「杵や」の清末素子さんは新潟県出身。東京で百貨店に勤務していた時、今の御主人と知り合い結婚。銀行員だった御主人が家業を継ぐため、2000年に故郷の豊後高田へUターンした。素子さんは「当時は犬・猫どころか、狸しか歩いていませんでした...」と苦笑する。今は名刺に「おもてなし担当」と刷り込み、店頭で焼き立ての煎餅を振る舞う毎日だ。
「中野鮮魚店」の中野久美さんは75歳になっても元気一杯。御主人の啓吾さんが病を患った後は、朝5時起きで市場に仕入れに行く。突然の取材にもかかわらず、久美さんは「若い人が魚を調理しなくなったから、ナマ物は売れなくなっちゃった。だから茹でたり焼いたり揚げたり忙しいんだよ」と飛び切りの笑顔で話してくれた。店は朝9時から夕方4時までで定休日はない。「色んな人と話ができるから、仕事をしているほうが楽しくて元気なんだよ」-
「昭和の町」が誇るたくさんの「お宝」の中で、最も価値が高いのは町の人がごく自然にもちろん無料で提供してくれる笑顔だ。それこそが、昭和が遺してくれた最高のレガシーだと思う。
この町は昭和の味の宝庫でもある。揚げパン、コッペパン、鯨の竜田揚げ、ソフト麺...。カフェ&バー「ブルヴァール」は、懐かしい学校給食を古い金属製の食器とともに提供する。また、大寅屋食堂は実に1980年から価格を据え置いており、今もチャンポンやカレーライス、ナポリタンを350円、カツ丼も450円で提供する。空き店舗も生まれ変わり、旧共立高田銀行の店舗をリノベートした「アルフォンソ」は、売れ切れるパンが続出している。
「昭和の町」のシンボル的な存在が、2009年に復活したボンネットバス(いすゞ自動車製1957年式)である。土日や祝日を中心に無料で運行され、ほぼ満員になるという人気者だ。今年「還暦」を迎えたから、故障も多くてメンテナンスは大変。それでも関係者の努力により、商店街をのんびり走り続けている。このほか、「昭和ロマン蔵」には往年の名車が丁寧に保存されている。
スタジオのセットではなく、生身の人間が毎日生活している舞台だからこそ、「昭和の町」には作り物ではない本物の強みと説得力がある。このため、映画のロケに利用され始めている。だがそれが実現するまでには、関係者の並々ならぬ苦労があった。
豊後高田市フィルムコミッションの努力が実り、ついに「昭和の町」でのロケが決定。2017年2月、3週間にわたり撮影が行われ、市民170人がエキストラとして参加し、商店街も炊き出しや差し入れでロケを精一杯応援した。
それが2017年9月に公開された「ナミヤ雑貨店の奇蹟」(原作・東野圭吾、主演・山田涼介、監督・廣木隆一)である。豊後高田市観光まちづくり株式会社の水田健二さんは「完成した映画を観ると、涙がこぼれ落ちそうになった。『昭和の町』を『映画の町』としても売り出していきたい」と話す。今、ロケ地を新たな「観光素材」として懸命にPRしている。
こうして2001年にスタートした「昭和の町」はゆっくりだが、着実に成長を続けてきた。実質ゼロだった観光客は10周年の2011年には40万人を突破。犬・猫も歩かなかった町に「奇跡」が起きたのである。
過疎化に苦しんできた豊後高田市は「昭和の町」で息を吹き返した。都会の縮小相似形を目指すのではなく、「無」を武器にした心のこもった再生戦略が、国内外から集まる観光客のハートをつかんだのである。
しかし、豊後高田市は成功体験に酔うことなく、次のステージを視野に入れる。佐々木敏夫市長にインタビューを行うと、「自治体は過疎対策や平成大合併に伴う周辺部対策に追われ続け、国は地方創生を掲げてきた。しかし、いずれにも特効薬は無い」と言い切った。豊後高田市の場合、観光をメインにして観光客など交流人口を地道に増やしていくしかないというわけだ。
観光政策を推進する上で、佐々木市長が「次の魅力ある素材」と指摘するのが、ユニークな仏教文化である。国東半島の六つの郷には奈良時代から寺院や行場が点在し、六郷満山(ろくごうまんざん)と総称される。険しい山々と奇岩の数々が山岳信仰を生み、これが伝来仏教や宇佐神宮(大分県宇佐市、全国に4万超ある八幡宮の総本宮)の神仏習合と結びつき、独特の信仰文化を築き上げた。豊後高田市内には、日本最大級の石仏である熊野摩崖仏(くまのまがいぶつ)や国宝の富貴寺(ふきじ)大堂など歴史遺産が少なくない。
六郷の一つである田染(たしぶ)は荘園時代からの稲作が健在であり、これを含む国東半島・宇佐地域は世界農業遺産に認定されている。
佐々木市長は「数年以内にインドや中国から仏教作品を集め、2018年に開山1300年を迎える六郷満山に仏器文化のテーマパークを構築したい」という。それにより年間70万人の観光客を集め、「昭和の町」の集客能力40万人と合わせて110万人の来訪を見込んでいる。
また、市内には六つの温泉が点在し、「全市民がクルマでおおむね10分で温泉に浸かることができる」(佐々木市長)。ミネラル分の豊富な世界有数の炭酸泉もあり、温泉は豊後高田の新たな観光資源の候補になる。海岸部に足を運ぶと、長崎鼻と呼ばれる岬や夕日の美しい真玉海岸、海に突き出た珍しい粟嶋社など、観光スポットは予想以上に多い。もちろん新鮮な魚介類も堪能できる。
また、豊後高田市は減り続けてきた定住人口も増加に転じるよう施策を打ち出している。子育て支援として、2018年4月から高校生までの医療費と中学生までの給食費を無料化する。佐々木市長は「子どもに罪は全く無いのに、親が給食費を払えないと子どもが後ろ指を指されてしまう。保護者の負担を軽減できれば、『もう一人産んでもいい』ということになる」と考え、出生率の向上に懸命に取り組んでいる。
市内には工業団地が三つあるが、「従業員の半分以上が市外から通勤してくる」(佐々木市長)。このため、宅地を市が無償提供し、市内に居住してもらう政策も検討している。市外からの移住を促し、政策総動員で少子高齢化に歯止めを掛け、人口増が実現するよう躍起になっている。インタビューの最後、佐々木市長は「市長選のマニフェストで約束したから、逃げるわけにはいかない。子どもたちの笑顔があふれる街にする」と力を込めた。これからも「昭和の町」は力強く進化を続けていくだろう。
(写真)筆者 PENTAX K-S2
中野 哲也