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路面電車フル活用の富山市/大津波から復興目指す宮城県山元町

コンパクトシティが地方を救う (第1回)

2014年10月01日

地域再生

HeadLine 編集長
中野 哲也

 市区町村1800の半数に消滅する可能性がある―。日本創成会議(座長・増田寛也元総務相)が今年5月公表した独自推計は、全国の自治体に衝撃を与えた。少子高齢化・人口減少は決して新しい問題ではないが、先送りされてきたのが実情。自治体半減は「不都合な真実」と向き合えという警告だが、人口を増やすには長い時間がかかり、即効薬は見当たらない。では一体どうしたらよいのか。

 モータリゼーションが地方をクルマ社会に変え、人口は街の中心部から工場が立地する郊外に移動した。「規模の経済」の優位性が疑われず、道路や下水道、福祉といった行政サービスも郊外に拡散した。しかし、グローバル化に伴う製造業の海外移転と、少子高齢化・人口減少が同時進行すると、もはや地方は「規模の経済」を追求できない。

 地方活性化の動向に詳しい、慶大大学院システムデザイン・マネジメント研究科の保井俊之特別招聘教授は「米シリコンバレーに代表される、集積効果を追求する『範囲の経済』に変わらない限り、地方自治体の生き残りは厳しい。しかし、インフラ、ハコモノ、住民のネットワークをつなぎ替えるためには、既得権を持つ抵抗勢力と闘う強力な首長の登場が必要になる」と指摘する。今回は、「範囲の経済」として注目を集めるコンパクトシティの実現に向け、難題に挑戦する二人の首長にインタビューを行い、その実情をレポートする。


「串と団子」で生き残り目指す 富山市

 全国自治体の中でコンパクトシティ政策にいち早く取り組み、成果を上げているのが富山市(人口約42万人)である。森雅志市長にその本質を尋ねると、「不公平な政策」という答えが返ってきた。「人口減少が不可避になり、右肩上がり時代の市全域(約1242平方キロ)への均質な行政サービス提供は今や、砂漠に水を撒くようなもの。市全体が沈没して生き残れなくなる」という。だから中心部に投資を集中し、居住者をそこに誘導する。市の中心部の地価を維持し、固定資産税や都市計画税などの歳入を確保しようとしている。

 富山県議から2002年に市長へ転じた森氏が着目したのは、市内に残っていたローカル線や路面電車、それにバス網である。こうした公共交通を「串」に、駅などを中心とする徒歩圏を「団子」に見立て、串が団子を突き刺してネットワークを形成するコンパクトシティを目指すことにした。

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201409_コンパクト_2.jpg 森市長はまず、利用客が減少していたJR富山港線(富山~岩瀬浜)を第三セクターに改め、2006年に日本初の本格的なLRT(次世代型路面電車)「ポートラム」として蘇生した。LRTは床が低いため、お年寄りでも楽に乗り降りできる。運転間隔を30~60分から10~15分に短縮し、運賃も200円均一制に。駅の数も増やし、乗客目線でサービス向上を図った結果、開業前と比べて利用客数は平日で2.1倍、休日は3.4倍に急増した。市の調査によると、LRT開業までは出歩くことの少なかった高齢者ら、新規乗降客が全体の2割を占めている。


 次に、森市長は市内電車を約900メートル延伸し、2009年に環状線「セントラム」に造り替えた。ポートラム同様、低床のLRTで運賃も200円均一制である。延伸によって市電と富山城址がコラボする美しい景観が生まれたほか、市民のライフスタイルに変化が生まれた。例えば、中心部での休日の平均滞在時間は自動車利用者113分に対し、環状線利用者は128分と15分も長い。消費金額も自動車は9207円にとどまるが、環状線では1万2102円に達する。クルマを自宅に置いて、市内で酒を楽しむ人が着実に増えているという。

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森市長「市民にお金をもっと使ってもらう」

 農閑期の副業として始まった「富山の薬売り」に代表されるように、富山市民は働き者で質実剛健といわれる。総務省の家計調査(2012年)によると、勤労者世帯の実収入は都道府県庁所在市の中で3位。借金が少ないため、可処分所得と貯蓄率は1位である。半面、消費支出は21位、消費性向は47位にダウンする。森市長は「住宅と耐久消費財を買ったら、後はひたすら貯め込むという市民性。富山市が生き残るため、市民にお金を使ってもらうことが私の仕事だ」と言い切る。

 そこで、森市長は人口減少時代の消費のカギを握るお年寄りに外出を促そうと、「おでかけ定期券」というサービスを始めた。 65歳以上の市民がこの定期券(年間1000円)を買うと、市内各地から中心部までの公共交通運賃が一律100円(午前9時~午後5時)。高齢者の4人に1人がこの定期を持ち、一日平均2500人超が利用する。

 また、指定花屋で花束を買って市内電車に乗ると、運賃が無料になるサービスもある。その意味を聞くと、森市長は「私も何だかよく分からないけど、何となくオシャレだし、街に行きたくなるじゃない」と笑みを浮かべた。「人を動かす三大要素は、楽しい、美味しい(お買い得感も含む)、オシャレ」というのが市長の持論。「その三つのどれかあれば、人は用がなくても街中に出掛けて行く」―


北陸新幹線が来春開業すると...東京から2時間で

 公共交通網を整えても、市民が郊外から中心部に住み替えてくれなければ、コンパクトシティは実現しない。このため、富山市は中心部に移る市民などを対象に各種の助成制度を導入している。例えば、住宅購入者に50万円、賃貸生活者には家賃補助月1万円(3年間)を支給する。建設業者の共同住宅建設に対しては、一戸当たり100万円助成する。その結果、転出が続いていた中心部の人口が2008年から転入超過に様変わりした。また、中心部の歩行者数の増加に伴い、シャッターが目立つ商店街の空き店舗率もわずかながら改善している。

201409_コンパクト_5.jpg しかし、コンパクトシティの完成度としては、森市長は「まだ60%ぐらい」という。インフラ整備では、JR富山駅で分断されているポートラムとセントラムを接続するという、難題を仕上げなくてはならない。ソフト面でも、 「コンパクトシティ化で高齢者の外出が増え、健康寿命が延びることを証明したい」と意気込む。実際、市が「おでかけ定期券」の利用者を調査したところ、一人当たりの歩数が一日1309歩増加。その医療費削減効果は一人一日約80円、定期券利用者全体では年7560万円に上るという。

 今、来春の北陸新幹線開業に向けて、JR富山駅では改築工事が急ピッチで進んでいる。東京とは2時間強で結ばれるから、今より1時間以上も短くなる。日銀富山事務所の伊藤栄所長は「優秀な人を確保するという意味で、新幹線は富山市の新たな武器になり得る」と予想する。新幹線が森市長の創造力を刺激し、富山市のコンパクトシティ政策は更なる進化を遂げるかもしれない。


震災後、人口が2割減少 宮城県山元町

 コンパクトシティ政策は、「東日本大震災で被災した過疎地域でこそ有効に機能するのではないか」(前出の保井俊之・慶大特別招聘教授)とも期待される。ゼロからの街づくりを余儀なくされた被災自治体が、住宅や交通インフラ、公共施設を安全性の高いエリアに集約し、少子高齢化・人口減少を乗り越えようという考え方である。

 東日本大震災で大打撃を受けた宮城県亘理郡山元町。斎藤俊夫町長はコンパクトシティを軸にして、町を復興しようと奮闘している。太平洋に臨む同町は「東北の湘南」といわれるほど、夏冬も過ごしやすい気候。冬もクローズしないゴルフ場には北海道などからゴルファーが集まり、イチゴやリンゴ、ホッキ貝といった幸にも恵まれる。近年は電車で40分の仙台市のベッドタウンとなり、最盛期の人口は1万8000人を超えていた。

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 しかし、それでも少子高齢化・人口減少には抗し切れない。山元町の人口がジリジリと減り始めたところに、12メートルもの巨大津波が襲ってきた。人口の4%に当たる635人の尊い命が失われ、可住地域の6割が浸水した。唯一の鉄道であるJR常磐線が被災し、同町内の区間は未だ不通。仙台市への通勤・通学客が次々に町から出て行ってしまい、人口は震災前の1万6695人から2割以上も減り、今年7月末に1万3000人を割り込んだ。

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 斎藤町長は宮城県庁時代、政令市を目指す仙台市の広域合併に尽力した。2010年4月、山元町長に初当選すると、「高齢化率3分の1超の山元町は生き残れない」と危機感を抱き、秘かに隣接す亘理町との合併構想を練り上げた。なぜなら、一般会計が50億円規模の山元町単独では、「投資的経費が6億~7億円程度しかなく、その大半が道路や排水路などの維持・修繕費に消えてしまう」からだ。

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隣町との合併も...「コンパクトな街にするしか...」

 ところが、翌2011年3月11日の巨大津波はこの合併構想も押し流してしまい、斎藤町長は茫然とするほかなかった。建て替え中の実家が水没し、町長も被災者となる。震災直後は車上生活。その後は町役場に泊まり込み、寝食を忘れて復興の陣頭指揮を執り続ける中、「町を再生させるには、コンパクトシティを導入するしかない」と確信するようになった。

 JR東日本が常磐線不通区間を内陸側に移設した上で復旧させる方針を固めると、斎藤町長はそれに合わせて3つの市街地を新たに整備するコンパクトシティ計画を打ちだした。被災住民をこのエリアに誘導し、学校や保育所、公園、防災センター、ショッピングセンターなどを建設。開発総面積は東京ドーム約12個分の56ヘクタールに上り、2015年度に真新しい住宅757戸が誕生する。

 この計画を策定する前、山元町は住民に対して意向聴き取り調査を行い、約7割の支持を得た。しかしながら、新市街地や常磐線新区間から離れてしまう住民の不満は根強く、斎藤町長は今年4月の町長選で再選されたものの、「反コンパクトシティ」を掲げた元町長とはわずか194票差だった。だが選挙後もひるむことなく、斎藤町長は「未曽有の巨大津波を経験した山元町にとって、コンパクトシティは必然的な対応。その成功こそが、全国からの大変有難いご支援に対する恩返しになる」と語り、粘り強く町民の説得を続けている。

 ただし、一つ深刻な問題が発生している。小さな町がこれだけの大事業を進めているのに、町役場のマンパワーが圧倒的に足らないのだ。震災前に比べると予算は10倍の560億円(2013年度当初)まで膨らんだが、職員数は1.6倍しか増えていない。しかも総勢296人のうち115人が他自治体からの派遣職員であり、その3分の2が一年で交代する。「町役場には毎日、ありとあらゆる案件が持ち込まれている。コンパクトシティを成功させるためにも、長期の職員派遣をお願いしたい」―。斎藤町長は悲痛な叫び声を上げている。

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 山元町に残る唯一の本格的な宿泊施設が、江戸時代末期の創業という磐城屋である。7代目主人の斎藤次郎さん(80)は「昭和30年代までは富山の薬売りが上客だったし、その後は学校の先生がたくさん下宿してくれた。バブル期は北海道からのゴルフ客で繁盛したんだよ」と懐かしそうに話す。

 斎藤さんは大津波で愛車を失い、旅館も浸水して営業不能になり、「俺の代でけじめを付けろということか...」と気持ちは廃業に傾いた。しかし、大震災後初めての盆が近づいてくると、近所から「家族や親戚が帰郷してくるのに、泊まる所がないんだよ」という声が聞こえてきた。斎藤さんはコツコツ貯めていた300万円を投じて旅館を修繕し、急きょ営業を再開した。

 ところがその後、山元町が「コンパクトシティ計画の一環で道路を通したいから、旅館の建っている土地を譲ってほしい」と打診してきた。再び斎藤さんは悩み始める。「先祖代々の土地を手放してよいのか」と自問を続けているうちに、「自分が生まれ育った山元町がコンパクトシティで生き残ることができるなら...」―。斎藤さんは150年の歴史を刻み込んできた旅館と土地を手放す決断をした。

(写真)筆者 PENTAX K-50 使用

中野 哲也

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※この記事は、2014年10月1日に発行されたHeadlineに掲載されたものを、個別に記事として掲載しています。

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