2015年10月01日
地域再生
HeadLine 編集長
中野 哲也
今年8月半ば、記録的な猛暑が続いていた東京を飛びだし、宗谷岬(北海道稚内市)を目指した。現地に着くと寒暖計は16度を示していたが、強風が吹きつけてくるから、体感温度はもっと低い。日本が実効支配する国土では最北端に位置するため、真夏でも肌寒いわけだ。海の向こう側には大きな島、すなわちロシア領サハリン(旧樺太)が浮かんでいる。その間わずか43キロ。サハリンは歴史上、日露両国の威信と権益と武力が衝突する舞台となり、日本側の「玄関口」である稚内も翻弄(ほんろう)されてきた。
19世紀初め、欧米各国が植民地政策を展開する中、徳川幕府はロシアの南下を恐れていた。しかし、幕府は自らの鎖国政策によって情報流入を極端に制限していたから、ロシアに関する知識に乏しい。正確な地図がないため、領土や領海の境界もはっきりしない。例えば、古くから樺太の存在は知られていたものの、それがユーラシア大陸につながる「半島」か、あるいは切り離された「島」なのか―。激しい論争が起こっていた。
このため、幕府は間宮林蔵らに樺太を探検するよう命じた。間宮は農家に生まれたが、算術や測量の特異な能力を見いだされ、厳格な身分制度の時代にもかかわらず、幕府の下役人として抜擢されていた。間宮は後に日本全図を作成した伊能忠敬に測量技術を学んだ上で、幕府隠密として稚内から樺太へ渡航する。ロシアに決して察知されてはならない極秘の探検だった。
氷点下の厳しい寒さと未知の大自然に対する恐怖を乗り越え、間宮は1809年に樺太縦断に成功。それが「島」であることを確認し、論争に終止符を打った。だから、世界地図ではユーラシア大陸とサハリンの間の海が「間宮海峡」と記されているのである。
樺太とその周辺海域は水産物や鉱物の宝庫と目されていたから、日露関係にはたびたび軋轢(あつれき)が生じた。ようやく1875年に交換条約が締結され、ロシアが樺太を編入する一方で、日本は千島(ちしま)を領土とする。しかし、日露戦争で明治政府が勝利を収めると、樺太は南北で分断され、日本は北緯50度以南の南樺太を獲得した。鉄道が敷かれて鉱工業や漁業が発展し、南樺太の人口は最盛期に40万人を突破。同時に、稚内はその「玄関口」となり、資機材の供給基地として急速に発展を遂げた。
ところが、ソ連は太平洋戦争末期の1945年8月8日、日ソ中立条約を一方的に破棄した。南樺太に侵攻し、罪なき命を奪い続ける。郵便局で電話交換に従事していた若い女性9人は最期まで職場を離れず、ソ連兵が迫り来る中、「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら...」―。全員が青酸カリを服毒して自決したのは、終戦から既に5日が過ぎた8月20日のことだった。
戦後のサンフランシスコ講和条約によって、日本は南樺太の領有権を放棄した。ただし、ソ連が署名しなかったため、日本政府は南樺太の帰属について国際法上「未確定」の立場をとるが、今もロシアがサハリン州として実効支配を続けている。
日本の南サハリン放棄とともに、戦後の稚内は「玄関口」の機能を喪失した。だが幸い、日本海とオホーツク海に挟まれ、豊かな漁場に恵まれていた。戦後、稚内は北洋漁業の基地となり、ニシンやサケ、マス、タラ、カニなどを大量に水揚げする、国内有数の漁業の街として栄えるようになる。
ところが、ソ連が1975年に200海里漁業専管水域の設定を宣言すると、北洋漁業は壊滅的な打撃を受けた。止むなく稚内の漁業関係者はソ連からのカニ輸入に生き残りを懸ける。しかし、ソ連がロシアに変わると、今度は資源保護政策が厳しくなり、再び稚内漁業は窮地に追い込まれた。街は衰退して過疎化との戦いが始まり、人口は最盛期の5.5万人から今では3.6万人まで減っている。
宗谷海峡を挟んで大国ロシアと対峙する地勢は稚内の宿命であり、それが最北の街を翻弄してきた。そこで街の人々は発想を転換し、目と鼻の先に浮かぶサハリンを「経済資源」として活用しようと考えた。
前述したように、ソ連がサンフランシスコ講和条約に署名せず、日本とロシアは未だに平和条約を締結していない。一方、稚内市はサハリンとの文化交流に踏み切り、1972年にネベリスク市と友好都市協定を結んだ。今ではコルサコフ、ユジノサハリンスク両市とも友好都市であり、国家レベルとは別の次元で「草の根外交」を独自に推進している。サハリンとの交流は経済分野に拡大し、その象徴である定期航路のフェリーが夏場、稚内~コルサコフ間を5時間半で結んでいる。
稚内の街中を歩けば、道路標識や店の看板などにロシア語の表記が目に付く。市内唯一のロシア料理店「ペチカ」を訪ねると、サハリン出身の女性シェフが腕を振るっていた。彼女は「北海道の新鮮な食材を使い、サハリンの家庭料理と全く同じ味を再現できる」と自信を示し、市民もボルシチに舌鼓を打つ。日本で最も身近にロシアを感じられる街、それが稚内である。
ただし、稚内市のサハリン交流政策は必ずしも順風満帆というわけではない。市のサハリン課によると、サハリン大陸棚の石油・天然ガス開発(サハリン・プロジェクト)の最盛期には、定期船の年間輸送量が貨物約7000トン、旅客約6000人に上った。しかし、今ではそれぞれ1000トン弱、約4500人まで減っている。このため、稚内市は市内に2泊以上するサハリンからの来航客に対し、フェリー運賃4万円のうち1.5万円を補助。また、市内の業者がサハリンに輸出する際は、1件当たり5万円を支給するなど、交流拡大を積極的に支援している。
稚内市の粘り強い努力が実を結び、サハリン交流の経済効果は年間3億円を超える。しかし、定期船を運航していた民間業者が撤退を表明するなど、先行きは予断を許さない。市は第3セクター方式で定期船を存続させるとともに、首都圏などでのサハリン航路の知名度アップを目指し、PR活動を強化する方針だ。
サハリン交流の旗振り役を務める稚内市の工藤広市長は、毎年のように現地を訪れ、独自の人脈を築き上げている。最近はロシア人の日本食に対する関心をひしひしと感じており、「スイカやメロン、タマネギといった農産物の輸出が期待できる」と話す。
人口が3.6万人まで減少した稚内市だが、市域は761?に達する。面積は仙台市(宮城県)とほぼ同じで、人口は30分の1に過ぎない。1970年代、市主導で郊外に団地が造成される一方で、中心部が空洞化する「ドーナツ現象」が加速した。しかし、お年寄りは郊外には住みづらくなり、市は高齢化に対応した街づくりへの転換を図り、その切り札としてエリアごとにコンパクトシティの実現を目指している。
例えば、中心部の再開発で誕生した「キタカラ」にはJR稚内駅や道の駅、バスターミナルのほか、市内で22年ぶりに復活した映画館、飲食店、物販店、コンビニなどが集積。さらに、高齢者向けのグループホームやサービス付き住宅も併設されており、工藤市長は「北海道は国内有数のクルマ社会だが、お年寄りが歩いて生活できるエリアを実現した」という。
市内には日本最北端の宗谷岬をはじめ、夕日が素晴らしいノシャップ岬、70本もの円柱が連なる北防波堤ドーム、海抜240メートルの開基百年記念塔...。予想以上に見所が多いし、もちろん随所で新鮮な海と山の幸を存分に楽しめる。
工藤市長はこうした観光資源で交流人口の拡大を目指す一方で、「環境の稚内」も売り込んでいる。一年中強い風が吹きつける稚内は「風力発電の最適地」とも指摘されており、氷河期に形成された宗谷丘陵には国内最大級の風車群がある。また、東京ドーム約3個分の敷地に太陽光パネルを敷き詰めたメガソーラー発電所も稼働している。
風車は増設が予定されており、再生可能エネルギーだけで市内の電力需要を賄える計算になる。また、近隣地域への電力供給に向け、国に働き掛けて送電網の整備も進める。工藤市長は「企業には稚内を環境技術の研究開発に活用してもらい、将来は環境関連産業の集積地を目指したい」と期待している。
日本の未来の担い手は子供たち。それなのに全国で少子化に歯止めが掛からず、稚内市もその例外ではない。しかし、この街は市民ぐるみで取り組む「子育て運動」を展開し、たくましい子供たちを育て続けている。その中で生まれたものに「南中ソーラン」がある。アップテンポに編曲した民謡「ソーラン節」に合わせ、子供たちがチームを組んで熱く激しく踊るのだ。
8月22日、市内の公園では南中ソーラン全国交流祭が開かれ、幼児から小学生、中学生まで約1500人が自慢の踊りを披露した。小中合わせて15人しかいない学校は、中学生が小学1年生を優しく導きながら、心を一つにして踊りまくる。離島から駆けつけた日本最北の中学校の生徒は、EXILEのようにカッコ良く演じ切り、観衆から喝采を浴びていた。子どもたちは皆、一心不乱に南中ソーランを踊りながら、「遠い、寒い、雪が多いというハンディキャップ」(工藤市長)を吹き飛ばすパワーだ。その真剣な顔はどれもキラリと光り、無限の可能性を感じた。
(写真)筆者 PENTAX K-S2 使用
中野 哲也