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元プロ野球ロッテ・藤田投手の人生「再登板」

潜望鏡 第13回

2016年12月19日

社会・生活

HeadLine 編集長
中野 哲也

 憧れの職業に就いて生きていきたい―。子供の頃、だれもがそう考える。だが、次第に夢と現実のギャップが広がり、ほとんどの人はいずれ妥協を迫られる。だから、野球が好きでプロ入りし、主力選手になることは奇跡に近い。しかも、選手として活躍できる期間は決して長くない。40歳まで現役はほんの一握り。逆に、20代で「第二の人生」への転身を迫られるケースも珍しくない。引退後に監督やコーチとして飯が食えればよいが、それもまた狭き門。結局、大半が畑違いの仕事に就き、愛する家族のために歯を食いしばっている。

 そんな元プロ野球選手の一人である藤田宗一さん(44)に取材した。藤田さんは社会人野球を経て、1998年に千葉ロッテマリーンズに入団。しなやかな左腕から繰り出す速球、スライダー、カットボールを武器に、リリーフ投手として馬車馬のように働き、1999年から2年連続でパリーグ最多登板。そして2005年、「勝利の方程式=Y(薮田安彦)F(藤田)K(小林雅英)」の一員として大活躍し、ロッテは31年ぶりの日本一に輝く。藤田さんは「全部が全部一番良かった年。野球人生のピークでした」と振り返る。翌年、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)代表にも選ばれ、日本チームの世界一に貢献した。

 リリーフ投手は過酷な仕事である。先発投手であれば、中6日程度のローテーションで登板すればよい。一方、リリーフ陣はほぼ全試合ブルペンに入り、いつお呼びが掛かるか分からない。藤田さんは600試合登板をすべてリリーフで達成したが、「実際には倍以上の1200~1300試合はブルペンで肩をつくっていました」と明かす。「日本一によって1億円プレーヤーになりましたが、当時のリリーフ投手は割に合わない仕事でした」―

 いくら鉄腕でも、疲労は蓄積していく。そして藤田さんにとって「一番嫌な思い出」という、2007年シーズンを迎える。この年、「肩の調子があまりよくなかったのに、無理矢理投げさせられた」―。結果、入団10年目で最悪の成績に。サラリーマン社会ならば、「パワハラによる労働災害」かもしれないが...

 そしてシーズン終了後、藤田さんはロッテから戦力外通告、つまりクビになった。その後、巨人、ソフトバンクと渡り歩くが、成績は上がらず、2011年プロ野球に別れを告げた。それでも野球をあきらめない。翌年、独立リーグの群馬ダイヤモンドペガサスに選手兼投手コーチとして入団。そこでプレーしながら、プロ野球復帰を目指した。ところが、ふくらはぎに肉離れが...。「これはもうダメだ」とついに引退を決意した。

 第二の人生に目途は立っていない。それでも、家族を養わなくてはならない。途方に暮れていた時、頭に浮かんだのが、単身赴任の群馬時代に弁当のおかずにしていた名産の「愛豚」(まなぶた)。そしてラーメン店で修行して飲食のイロハを学び、2014年に東京・赤坂で豚焼専門店「繁」を開く(現在は和牛ホルモン専門店「宗一」)。しかし、肉がうまく切れず、何キロも無駄に...。宣伝に慎重だったから、客の入りも芳しくなく、一年目は大赤字。やがて球界の先輩や現役選手が聞きつけ、たくさん来てくれるようになった。

 今、藤田さんはこう語る。「野球とは全く違う仕事ですが、勝負という意味では共通します。リリーフ投手は0点で抑えたら、飲食店はお客さんが来たら勝ちなんです。今日は来てくれるかなと毎日不安になり、野球と似たスリルを味わいます」―。時折、達観したような笑顔を見せる。球界の表も裏も知り尽くし、挫折を何度も乗り越えてきた男。いつの日か、指導者として球界に復帰してほしいと切に願う。

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藤田宗一さん(元ロッテ投手)

(写真)小笹 泰 PENTAX K-50

中野 哲也

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