2016年12月26日
社会・生活
主任研究員
貝田 尚重
1995年のWindows95の発売を契機に、インターネットが日々の生活に深く入り込み、私たちのライフスタイルは劇的に変わった。かつて分厚い辞書を引いたり、何冊もの関連書籍に当たったりしなければ分からなかったことも、ググりさえすれば(=Googleで検索)、即刻解決する。ニュースも料理レシピも電車の時刻表も、インターネットの中に存在しているから、新聞や料理本、時刻表を買わなくても困らなくなった。
オフィスでは、分厚い資料を印刷して会議出席者に配布する手間が省けるようになった。PDFファイルを添付し、メールで一斉送信すれば事足りるからだ。給与明細も健康診断の案内もネットの中にある。紙の印刷・配布・分類・保管にかかる時間を圧縮すれば、生産性が上がる。そればかりか、資源の節約にもつながるとして、ペーパーレスオフィスが効率的で理想的な職場といわれるようになった。
だが、オフィスの中をちょっと見回してみてほしい。意外と紙は減っていないのでは?中には、うず高く紙の山が積み上がった席もあるはずだ。ペーパーレスオフィスの時代は本当にやって来るのだろうか。
日本製紙連合会がまとめた2016年の紙の内需は、前年比2.2%減の1501万トンとなる見通しだ。マイナス成長は10年連続。中でも印刷用紙の落ち込みが激しく、リーマン・ショック前の2007年と比べて約30%の減少である。そういえば、家電製品などを購入する際に、ウェブサイトの情報で価格・性能を比較するのが当たり前になった。通信販売もカタログ冊子を宅配するスタイルから、電子カタログやネット通販へのシフトが加速していることを考えれば、なるほどと納得がいく。
一方で、情報用紙の需要は前年比0.7%減(2007年比10.3%減)と底堅い。このうち、複合機で使われるPPC用紙はほぼ横ばいで推移している。
その背景には、①企業がコスト削減のため、印刷内製化の傾向を強めていること(=印刷用紙からPPC用紙への需要の付け替え)②帳票などの印刷に使われるフォーム用紙から、汎用性の高いPPC用紙へのシフトが進んでいること―などが指摘できそうだ。
オフィスでは、「書類ストックのペーパーレス化」(ファイルに綴じて紙を保存→電子データとして保存)が定着した。その一方で、複合機の高速化・低コスト化によって、必要になるたびに何度も同じ文書をプリントアウトするクセがついているのも事実だ。しかし何よりも、紙に印刷して読むほうが読みやすく、記憶に残りやすいことを、私たちが本能的に知っているからではないか。
紙は古代中国の後漢の時代に普及するようになり、それから1900年以上にわたり、記録・伝達媒体として人類の歴史を支えてきた。誕生から100年足らずのコンピューターや、普及から20年余のインターネットとは歴史の重みが違うのである。
脳の機能から紙の価値を論考する東京大学大学院の酒井邦嘉教授にインタビューを行い、「言語脳科学者から見た紙の特性」について聞いた。
―紙とデジタルの本質的な違いは何でしょうか。
酒井邦嘉教授 コンピューターの画面で長い文章を読む時には、スクロールしながら読むため、文字と画面の位置関係が定まりません。ところが紙の上では、文字と紙の位置関係は常に一定であり、各ページごとに行きつ戻りつ参照できます。一つひとつの文字に対して「空間的な手掛かり」を持てることが、紙の大きな特徴です。
ページをめくっていくと、「このレイアウトの中の大体この辺りに書いてあった」といった「自動的な記憶」が、後で思い出したり、考えを整理したりするための手掛かりになります。付箋はもちろん、紙の汚れやページをめくる際にできたシワや折れ目さえも、記憶の手掛かりとなり得ます。つまり、紙は画面よりも注意を向けやすく、脳にとって「手掛かりが豊富にある」と言えます。
紙の厚みがもたらすページの量的な感覚も大切な要素で、小説も仕事の資料も、紙で読む場合には、視覚に加えて触覚からも常に「全体のどの辺りを読んでいるか」を把握しながら読むことができます。
―教育のデジタル化も進んでいます。タブレットを使う電子教科書についてどうお考えですか。
タブレットの問題は、画面が一つしかないということです。紙のプリントであれば、机の上に何枚も広げたり、教科書と並べて参照しながら考えたりできます。しかも、「プリントのこの辺にこう書いてあった」という位置情報も大切な手掛かりです。学生は疑問点やポイントを書き込んだり、アンダーラインを引いたりしながら、情報を取捨選択できます。そうした作業を通して、考えるゆとりも生まれるのです。
読んだことを記憶として定着させるためには、紙への書き込みやマーキングなどの手掛かりを豊富に作っておくことが効果的です。試験前に復習しようという時、授業で勉強してからだいぶ時間が経っていても、「あの話は確かこの辺に出ていたな」と予測してテキストを開いてみると、大概当たっているものです。そしてページに残っている自分の書き込みを見た瞬間、その周辺に書かれている内容や勘所が頭に浮かんできます。
―今やPCでノートを取る学生も増えましたが。
授業中にノートを取る際、手書きとPCでは大きな差があります。人間は録音機やコピー機ではないので、耳から入ってきたことをそのまま覚えるわけにはいきません。ですから手で書く場合、先生が言ったことや板書を丸写しするとは限りません。「ここが重要」と思うポイントや後で読み直したい場所に印を付けたり、行間をとって書き込んだりしながら、情報を空間の中に位置付けます。内容を咀嚼しながら、過去に学んだことと結びつけ、脳の中でダイナミックに整理していくのです。
ところが、PCでノートを取る人は、聞いた言葉を一字一句すべて書き取ろうとする傾向が強いため、咀嚼する余裕もなければ、考える暇もなくなってしまいます。余分な情報も全部書いてしまうと益々受け身になり、能動的な整理が後回しになりがちです。そのためか、PCでノートを取っている学生は、授業中にほとんど質問しませんね。
さらに最近では、板書を終えたあたりで、「カシャッ」とシャッター音がすることがあります。振り返ると、板書をスマートフォンやタブレットで撮影しているのです。必要な時に膨大な画像の中から板書の内容を検索するのは困難でしょう。一方、自分で取ったノートは、常に頭の中でタグを付けているので、意外とすぐに探せるものです。
―アナログ世代にとっては、紙の教科書やノートで勉強すべきだという説はもっともだと思います。しかし、デジタルネイティブ世代の若者は、デジタル教材で学び、PCでノートを取ることにうまく適応していくのではありませんか?
目に見えない変化として恐ろしいと思うのは、子供たちが情報の受容に対して、物ぐさになってしまう可能性です。一度聞いたことや目にしたものを何度も見返し、整理することで記憶として定着するのが、本来の学習の在り方です。ところがネット上には、何が重要で何が重要でないかを一つひとつ取捨選択するのが面倒になるほどの膨大な情報があふれています。そのため、「後で調べればなんとかなる」と慢心する恐れがあるのです。
そして、「簡単に検索して調べられる」というのも、大問題です。自分の頭で考える前に調べてしまい、調べただけで分かった気になってしまうからです。情報が少なければ、それを補うために自分の頭で考える必要が生まれます。足りない情報を補うための想像力が「思考力」を創るのです。
―企業社会では省資源の観点からも、「ペーパーレス会議」「ペーパーレスオフィス」が推奨される風潮がありますが、いかがでしょうか。
紙がムダだという思い込みを、紙が有効だという発想に変えていけるかでしょう。企業として「エコ」であることは大切かもしれませんが、エコ以上に重要なのは会議の中身のはずです。事前に結論が決まっていて、形式的に承認するだけの会議ならば、ペーパーレス会議でも支障はないかもしれません。しかし、ブレインストーミングのようにアイデアを練り上げたり、議論を深めたりすることが必要な場合には、余白をたっぷり取った紙のレジュメが最適でしょう。議論が多ければ多いほど、紙はとても使い勝手が良いはずです。
紙を使うとして、小さな図や文字に変えてもレジュメの内容は変わらないと思うのは早計です。図の余白に色々な意見やアイデアを書き込めるようにすることで、そこから思いがけないヒントが生まれてくる余地ができるからです。そういう風に紙はどんどん活用していかないといけません。そのためにも、紙の資料があることによって、内容の把握や議論の深め方にどのような効果があるか、基礎研究や実践で確かめるとよいでしょう。
―私たちは紙とデジタルをどう使い分けていくべきなのでしょうか。
デジタル技術の発展によって、自動運転や人工知能(AI)の実用段階が近づいてきました。自動運転は事故を起こさないための技術といわれますが、一番大切な安全に対する判断を本当に機械任せにしてよいのでしょうか。機械に何らかのトラブルや、誤認識・誤作動が発生した時、人間がそれを正す必要があります。しかし、いつも自動運転の車に乗っているようでは、「いざ」という瞬時の判断力が鈍ってしまうかもしれません。思考や判断を軽視する使い方はとても危険です。
AIも技術が悪用されたり、利己的な目的に使われたりする恐れがあります。また、ある人にとっては有益であっても、別の人には害になるかもしれません。使い方を判断をするのはやはり人間しかいないということを、真剣に直視しなくてはと思います。どんどん色々なものが電子化され、「紙は要らない」と極端な主張をする人もいますが、その半面で「これには紙が必要だ」ということが明確になってきたとも言えるでしょう。芸術の表現や教育の現場、そして仕事や余暇で自分の考えをまとめる時には、紙を最大限に活用すべきでしょう。紙にはそれ自体何物にも代え難い価値があるのです。
酒井 邦嘉氏(さかい・くによし)
1964年東京生まれ。東大大学院理学系研究科博士課程修了後、同大医学部助手、ハーバード大医学部リサーチフェロー、マサチューセッツ工科大学客員研究員を経て、1997年東大大学院総合文化研究科助教授・准教授。2012年から同教授。専門は言語脳科学、脳機能イメージング。主な著書に「言語の脳科学」「科学という考え方」(中公新書)、「脳の言語地図」(明治書院)、「脳を創る読書」(実業之日本社)、「芸術を創る脳」(東京大学出版会)など。
(写真)佐々木 通孝 PENTAX K-50
貝田 尚重