2017年09月11日
社会・生活
主席研究員
中野 哲也
先般、ロシア沿海地方の中心都市、ウラジオストクを取材して歩いた。日本海を挟んで日本と向き合うこの街は、かつてわが国との貿易が活発であり、1919年頃は6000人もの日本人が居留していた。今でも旧日本人街の面影を残す古い建物が多く、往時をしのぶことができる(詳細はRICOH Quarterly Headline Vol.17=9月29日発行予定=に掲載する拙稿をご覧いただければ幸いです)。本コラムではこの街の「今」について雑観を記したい。
ウラジオストクは坂の街であり、50代半ばの不摂生の塊(かたまり)が歩くにはしんどい。地元の人もマイカーでの移動が一般的で、その9割以上を日本から輸入された中古車が占める。東京では見かけなくなったかつての名車が、今も大事に使われている様子を見ると何だかうれしい。トラックは日本を走っていた時のままの姿であり、漢字の企業名が微笑ましい。観光ガイドをお願いしたオリガ・ソルダトワさんに尋ねると、「日本語のほうがオシャレな感じがするから人気なんですよ」という。
日本食も人気が急速に高まっており、もはや「イザカヤ」がロシア語化していた。元々、この地方では魚介類はもちろん、コメやソバの実などを食する習慣があり、地元料理は予想以上に日本人の舌に合う。伝統的なピロシキは肉を詰めたものだけでなく、スイーツ代わりの甘いものまで数十種類もある。でも子どもにとっては、母の味が一番。仕事が忙しいオリガさんも、「冷凍食品は嫌いですから、自宅でせっせと小麦粉をこねています」という。
市街地から、世界最長の斜張橋といわれる「ルースキー橋」で海峡を渡ると、ほんの数分で対岸にあるルースキー島に到着。ロシアのエリート校の一つとされる極東連邦大学があり、先週は東方経済フォーラーム(EEF)が開催された。広大なキャンパスには公園のほか、短い夏を楽しむ海水浴場まである。EEFに参加した安倍晋三首相も大学の宿泊施設を利用したようだ。
このルースキー島にはかつて日本を仮想敵国とした要塞の跡地があり、大砲群が復元されていた。しかし今やこの地で日露両国の首脳が固い握手を交わし、極東開発をめぐり経済協力を話し合うのだから、人間は決して絶望的な存在ではない。過去72年間、人類は局地戦を防げなくても、第三次世界大戦だけは回避してきた。現下の朝鮮半島危機も英知を結集して乗り越えなくてはならない。
ルースキー島からウラジオストク市街地に戻り、北朝鮮レストランを外からのぞいた。すると、中国人と見られる団体客がたくさん出てきた。危機など全く無縁といわんばかりに笑い声を上げながら...。国際情勢はいつの時代も複雑怪奇、予断を排除して注視していきたい。
(写真)筆者 PENTAX K-S2
【参考文献】「ウラジオストク 日本人居留民の歴史 1860~1937年」(ゾーヤ・モルグン著、藤本和貴夫訳、東京堂出版)
中野 哲也