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伊勢神宮から消えた日本鶏

=初詣で抱いた減りゆく古来種への思い=

2018年02月08日

社会・生活

企画室
小野 愛

 新春、筆者は初詣で伊勢神宮を参拝した。広大な敷地と大勢の参拝客に圧倒されながら、明るくにぎやかな境内をゆっくりと歩いた。まずは、外宮(げくう)をお参りした後、人と神を結ぶ「宇治橋」を渡り、内宮(ないくう)に参拝した。凛(りん)とそびえる杉の木々の間から差し込む光に神聖な雰囲気を感じた。

 全国約8万2000の神社を傘下に置く神社本庁の中で、伊勢神宮は頂点に位置する。境内には、皇室の起源となる「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」が祭られた内宮を主とし、衣食住など産業の守り神である「豊受大御神(とようけのおおみかみ)」の外宮を含めて125もの宮社がある。

 私は伊勢神宮参拝で楽しみにしていたことがある。鶏(にわとり)を見ることだ。神話の中で、天岩戸に引きこもった天照を誘い出すため、八百万(やおよろず)の神々はさまざまな宴を催した。そのうちの一つが、「常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)」とよばれる鶏を集めて鳴かせることだった。この神話から、鶏は神の使いとされている。

 私は伊勢神宮の境内には「小国鶏(しょうこく)」などの日本古来の鶏が放し飼いにされていると聞いていた。大学で剥製を見たことがあり、実物を一目見てみたかったのだ。20180213.jpg

小国鶏(雄)の剥製
(東京大学総合研究博物館収蔵)

 しかし残念ながら、どこにも姿が見当たらなかった。人の多さにおびえて隠れているのではと思い、鶏が飛べる高さの木の枝の上まで探したが、ついに見つからなかった。神宮の職員に聞いたところ「鶏は管理して飼育をしているわけではないので年々数が減り、今では全く見なくなってしまった。奉納されたらまた放し飼いにするが、今のところ予定はない」とのことだった。

 鶏と言えば、多くの人は食用のイメージが強いはず。だが古来の日本では、鶏は鳴き声や姿が愛され、闘鶏が楽しまれるなど、庶民の娯楽文化に溶け込んでいた。その結果、日本各地で品種が多様化した。例えば、先述した小国鶏は、美しい声で正確な時を告げ、長く優美な羽毛を持つ。現在は、小国鶏を含む17品種が天然記念物に指定されている。

 その日本鶏が伊勢神宮だけでなく、日本全体から姿を消そうとしている。日本鶏よりも生産性が高い外国産が戦後に伝わり、養鶏業が急速に発達したからである。例えば、鶏の原種が年間約10個の卵を産むのに対し、品種改良が重ねられた卵用種は年間約300個も産卵する。

 養鶏産業の効率化と拡大の波にのまれ、日本鶏の飼育規模は縮小し続けている。東京大学総合研究博物館で日本鶏と愛鶏家の育種観を研究している工藤光平特任研究員は「日本鶏の飼育者は高齢化が進んでいる。このままでは、繁殖飼育の技術が失われてしまう」と危惧する。

 その上で、工藤研究員は「鳥インフルエンザなどの病気の蔓延を防ぐためには、均一化された産業鶏の遺伝的多様性を日本鶏によって回復させることが対策の一つ。日本鶏には日本人の精神世界や動物観が反映されていて、商業主義と一線を引いた文化的価値がある」と、日本鶏の保存の重要性を説く。

 実は、もう一つ伊勢神宮に行きたかった理由がある。それは、伊勢神宮の三代前で女性初の祭主となった北白川房子さんとの不思議なつながりだ。祭主とは、天皇陛下の代わりとして、天照大御神に仕える役割を担う。

 房子さんは、明治天皇の第7皇女で北白川宮家の出身。その邸宅は、北白川宮3代成久王と結婚した後、1913年に東京都芝区に建設された。日本建築界の基礎を築いたジョサイヤ・コンドルが設計した、フランス・ルネッサンス様式の洋館であった。

 私の父は、第2次世界大戦終戦直後の混沌(こんとん)を極めた東京に生まれた。幼少期は、芝区の旧北白川宮家邸宅の御門に隣接した門番の家に身を寄せていたようだ。ある日、幼い父は門番の家から、華やかな本邸に迷い込んだ。電動の玩具など見たこともない時代。広い部屋に長いレールを敷き、ドイツのメルクリン社製の鉄道模型を走らせて遊ぶ少年に出会ったと言う。また、宮廷風のイスやテーブルに目を丸くしたという。そんな話を最近、父から聴いてぜひ伊勢神宮にお参りしたいと思っていたのだ。

 当時、宮家は豊かな財産を有していた。しかし、終戦後の1947年、直系以外の宮家には宮内府から皇籍離脱の告示がされた。北白川宮家もその対象であった。房子さんは皇籍離脱と同時に、伊勢神宮祭主に就任した。その5年後には神社本庁総裁にも就いた。

 房子さんは、夫の成久王をフランス滞在中に自動車事故で亡くした。次いで、息子の永久王もモンゴルでの戦闘機事故で失った。悲しみに暮れた彼女は神宮祭主を務めながら、2000首以上の歌を詠んだという。そのうちの1首を紹介しよう。

 「鶏のうた三声ひびきてみつかひの出まし願う宮の大前」

 房子さんは、美しい声と姿をした日本鶏から家族や御先祖の気配を感じたのかもしれない。

 時代は変った。現在、北白川宮家の邸宅跡地にはグランドプリンスホテル新高輪が建てられており、往時をうかがい知ることはできない。だからというわけではないが、古くから日本人が親しみながらつくりあげ、ときに神と敬い、日常に溶け込んでいた日本古来の鶏はいなくならないでほしいと願うばかりだ。


参考文献:
「アジアの在来家畜」 在来家畜研究会(編)、名古屋大学出版会、2009年
「コンドルの初期邸宅建築に関する研究Ⅱ:北白川宮邸」小野木重勝、日本建築学会論文報告集、第197号、p.59-66、1972年
「神道の本義とその展開」、平田貫一、神道学会、1959年
「杉む羅:北白川房子歌集」、神宮司庁教導部、1963年
「日本建国の暗号」 中矢伸一 2010 株式会社ビジネス社
「ニワトリ 愛を独り占めにした鳥」遠藤秀紀、光文社新書、2010年
「東京の近代洋風建築:近代洋風建築(第2次)調査報告」、東京都教育庁生涯学習部文化課(編)、東京都教育委員会1991年
「ドキュメント人と業績大辞典第8巻」(1974年7月27日 朝日新聞夕刊)、ナダ出版センター、2000年
「歴史読本:天皇家と宮家」、新人物往来社、2006年11月号

小野 愛

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