2018年10月23日
社会・生活
企画室
岩下 祐子
「ワタシノ ナマエハ イワモト デス」―。突然、手話を披露してくれた長男に驚いた。私も手話を習っていたので、基本的な表現は理解できる。
彼はその日、障害者サッカー大会にボランティアで参加した。初めて難聴や、ろうの人と触れ合ったのだ。試合は声が届きにくいフルコートで行われ、選手は補聴器も付けない。このため、ピッチでは手話が主なコミュニケーション手段だ。監督からの指示も、健常者のメンバーが聞いて手振りで伝える。長男は飛び交う指示をサッカー経験者としての勘で判断するしかなく、自分も手話を使えるようになりたいと思ったという。
話したいことや聞きたいことがあるのに、それを言葉にできない―。そのもどかしさが新しい言葉を学ぶ原動力なのかもしれない。外国人と仲良くなれば、自然にその国の言葉を知りたくなるのと同じだ。「口元をじっと見つめられる感覚がとても不思議だった」―。長男の話を聞きながら、私は自分が会社の手話サークルや研修会に参加していた頃を思い出していた。
「〇〇〇を伝えたいときはどうすればいいの?」―。当時、先輩や講師によく聞いたものだ。「手話ができなくても話しかけてほしい」と思っているろう者が少なくないと知ったのもその頃だ。手話を身に付け、付き合いが広がることで、話したいことや知りたいことも増えていった。
最近、その手話が使われる機会が減っているという。筆談の代わりにスマートフォンで文字を打てば、簡単に意思疎通ができるようになったからだ。それでも、手話が廃れることはないだろう。手話は単なる情報伝達の手段ではなく、全身の動きや表情を通じて人の「温もり」まで伝えることができる。親しくなったら、手話で会話したくなる場面が出てくるはずだ。
2年後、日本で東京五輪・パラリンピックが開かれる。9月に手話を含むボランティアの募集も始まった。異なる文化や背景を持つ人々と仲良くなれば、「伝わらないもどかしさ」を感じることになる。五輪をきっかけに、手話に挑戦する人も増えると期待したい。
「ありがとう」と「お会いしましょう」の手話
(出所)https://www.irasutoya.com/2013/03/blog-post_6855.html
岩下 祐子