2018年12月25日
社会・生活
企画室長
古賀 雅之
「自分の物差しで問うのではなく、自分の物差しを問う」―。今秋、筆者は妻とともに岐阜県高山市を訪れた。昔ながらの町並みが残る通りを散策中、とあるお寺の門前に掲げられていたこの「御言葉」を目にした時、ある記憶がよみがえった。
高山市内の古い町並み、左の建物は日下部民藝館(国指定重要文化財)
(写真)筆者
筆者は2000~2007年、リコーのフランスの販売会社に駐在した。着任早々、驚かされたのはフランス人社長の主催する週次定例会議が、予定時刻通りに始まらなかったことだ(さすがに、お客様との面談には遅れることはなかったが...)。後に分かったことであるが、彼らにとって15分程度であれば、遅刻の範疇(はんちゅう)に入らないのである。
筆者はフランス人社長に対して、会議を定刻に始めるよう参加者に指示してくれとお願いしたところ、「それは無駄だ。なぜなら、それがフランス人のやり方だから。国民性とも言える」、「日本人は確かに会議を定刻に始めるが、結論が出ないことがあるではないか」と切り返されてしまった。明言はしなかったが、その言葉からは会議の中身こそが重要なんだという自負がうかがえた。
時間を守る―。これは、世界のビジネスパーソンが守るべきマナーの"一丁目一番地"だと思っていた。しかしながら、国や文化によって優先順位は変わるものだ。まして筆者以外、すべてフランス人による会議。「郷に入っては郷に従え」との教えの通り、フランス人の「ものの見方・考え方」をまずは理解する努力が必要だったと痛感した。
このフランス人社長は、上司である欧州本社社長(当時は日本人)が主催する会議には決して遅刻しなかった。彼は日本人の「ものの見方・考え方」を理解していたのだろう。
これは単なる時間厳守にまつわる話ではなく、「異文化理解」に対する示唆である。人と人とがお互いを理解し尊重することによって、その人の視野が広まり、視座が一段高くなるのではないだろうか。
われわれはこの世に生を受けて以来、家族・学校・会社・社会通念などから直接、間接に影響を受ける、至極当たり前だと思っている「ものの見方・考え方」を持っている。それは公私ともにさまざまな場面で判断基準になることが多い。「価値観」と言い換えることもできるだろう。
ところが、その価値観が自分や自分の属する集団にとって唯一無二な絶対なもので、他を受け入れない姿勢をとった瞬間、「固定観念」に変わってしまう。固定観念にとらわれると、自分にとって異質なものを視界から自然に遠ざけてしまう。自分や自分が属する集団にとって、「都合のいいもの」「居心地がいいもの」を選択し続ける恐れがある。
自分の「根っこ」にある「ものの見方・考え方」は大事にしつつ、それ以外のものを拒絶するのではなく、あらゆる物事を柔軟に捉え、良いものは自分にとり入れていく―。そう、時には「眼鏡」を外して広い視野を持ち、多様性を認めながら、自らが変化し続けることが肝要だと思う。
古賀 雅之