2019年05月29日
社会・生活
企画室
猪谷 聡
平成が終わりを迎えようとするある日、自宅でのんびりしていると「ガラガラガラ」と変な音がした。振り向くと、積み上げてあったCDのケースが「山崩れ」を起こしていた。すべて合わせると500枚ぐらいになるだろうか。ある時期から収拾がつかなくなり、乱雑に積み重ねていったものだ。
仕方なく片付けを始めた途端、困った事態に陥った。「これは海にドライブに行ったとき、BGMでかけていたアルバムだな」「これは初めておしゃれなレストランに行ったとき、お店で流れていた曲だ」―。1枚1枚取り上げるたびに、ウン十年前の青春の日々がよみがえり、懐かしさでたびたび手が止まってしまったのだ。
それでも何とか作業を続けたが、収録曲のわずか1、2曲しか聴いていないCDが大量にあることに気づいた。好きな曲やヒットした曲は繰り返し聴いたものの、それ以外は全く聴いた記憶がないのだ。試しに手元にあったCDをかけてみると、思いのほか心に染みる曲の連続に片付けの手が再び止まってしまった。
それにしても、なぜこんなにもったいない聴き方をしていたのだろうか。
振り返れば50歳代になる筆者が、日常的に音楽を楽しむようになったメディアはレコードが最初だ。当初はシングル盤しかかからないポータブルのレコードプレーヤーだったが、その後、わが家に大型のステレオプレーヤーがやって来ると、それまでとは比べものにならない澄んだ音質と、ステレオによる音の広がりに魅了された。レコードを傷つけないよう注意しながら、アルバムのA面からB面の隅々まで何度も聴いたものだ。その中で、ヒット曲でも有名曲でもないが、自分だけの「名曲」に巡り合う喜びに出会った。宝物を掘り当てたような高揚する瞬間だった。
カセットプレーヤーの登場で、「宝探し」は家の外でもできるようになった。だが、筆者の音楽との関わりで劇的な変化をもたらしたのは、CDプレーヤーの登場だった。大学1年生のときにアルバイトをして初めて購入。レコードとはまた違う、ノイズがないクリアな音質に感動した。何よりも、曲を飛ばして聴きたい曲だけを何度も繰り返し聴くことが簡単にできた。その選曲機能は、筆者にデジタル時代の幕開けを実感させた。中古を含め手当たり次第にCDを買い漁り、今では膨大な量のコレクションになってしまった。
しかし、この便利さを享受するのと引き換えに、多くのものを失っていたことに気付いた。これまでCDの山の中に埋もれていた、聴かれなかったままの数多くの曲がそれだ。以前、あるアーティストのアルバム制作の現場を追ったドキュメンタリー番組をテレビで見たことがある。その中で、シングルカットする曲もそうでない曲も、より良い曲になるようベストを尽くしていた姿が印象的だった。曲順や構成にも心血を注いでいた。産みの苦しみはどの曲も同じ。なのに、そうやって生み出された曲を筆者はないがしろにしていたといってもいい。それでは作品全体を通したアーティストとの「会話」は生まれない。
時代は今、CDから音楽配信で曲を入手する方法へと急速にシフトしつつある。一般社団法人日本レコード協会によると、2018年のCD音楽ソフトの総売り上げは、前年比10%減の1542憶円と6年連続で減少しているに対し、音楽配信売り上げは同13%増の645億円と5年連続で増加するなど、勢いの差は明らかだ。周囲の若い世代からは、「音楽配信のほうが気軽で便利」という声も聞く。
確かに音楽配信を通せば、聴きたい曲だけ選ぶことが容易になるだろう。その半面、偶然いい曲に巡り合うような機会は減るのではないか。聴かないままの曲を放置していた筆者が言うのもおこがましいが、若い世代が音楽の楽しみ方の一つを失うことになるのであれば残念でならない。
デジタル時代の音楽の行く末に思いを馳せながら、自らの「贖罪」を兼ねてまずは聴かないまま放置していた大量のCDの山と向き合ってみよう。そう心に決め令和を迎えた。
自宅で「山崩れ」を起こしたCD
(写真)筆者
猪谷 聡