2016年03月25日
社会・生活
HeadLine 編集部
竹内 典子
東京・銀座に隣接する新富町の一角にたたずむ「蛇の目鮨本店」―。創業は慶応元年(1865年)にさかのぼり、西郷隆盛と勝海舟が江戸城開城で睨み合っていた時、寿司を出前したという伝説もある。五代目当主杉山豊さん(61)に一日密着し、江戸前寿司の「粋」の正体を探ってみると...
寿司屋の一日は当然、ネタの仕入れから始まる。初めて訪れた築地市場の内部は、水でビショビショに濡れた"戦場"だった。売る人と買う人が狭い通路を埋め尽くし、大声を出して戦っている。その傍らを「ターレ」と呼ばれる小型運搬車が疾走しており、ボヤボヤしていたら轢かれてしまう。
「場内」では、売る人が600超の中卸店を構える。マグロ、ブリ、真鯛、活フグ、貝類、漬物...。それぞれが専門店であり、目利きで厳選されたネタが所狭しと並んでいる。一方、杉山さんは迷うことなく、昔からの馴染みの店に次々と顔を出し、「今日は上物が入ってる?」などと笑顔で話しかける。
しかし、眼光はいつの間にか鋭さを増しており、魚の色・艶と価格で解く「方程式」に挑んでいた。素人目にはどのネタも新鮮でおいしそうに見えるが、杉山さんの頭の中には長年培われてきた、独自の細かいランク付けがある。特に、冬場の仕入れが難しい。シケで漁ができない日も少なくないため、「多めに仕入れたり、逆に何も買わなかったり...」―。仕入れとは毎朝毎朝の真剣勝負なのだ。
仕入れが終わると、店に戻って仕込みに入る。この日の目玉は、足1本で1.2キロもあるというミズダコ。ランチタイムに出すため時間との戦いになる。冷たい塩水で丁寧に何度も洗い、吸盤を中心に汚れやぬめりを取り、最後に軽く茹でる。ただし、その日の客の好みを考えて煮付けにするなど、仕込みは想像以上に奥が深い。魚は鱗と内臓を取り、きれいに磨き上げる。ネタによっては、ひと手間かけて酢で締める。ふと気が付くと、カウンターの保冷ケースの中には、ネタが見事に整列していた。
ネタの仕込みと平行して、杉山さんはシャリを準備する。炊き上がった飯は、熱いうちに勝負が決まる。赤酢に塩と砂糖を合わせ、飯と手早く混ぜ、しばらく蒸らしてシャリが完成する。「赤酢」の原料は酒粕。通常の酢よりも甘みがあり、まろやかな香りが特徴だ。「寿司は時代によって変えていくものもある。だけどこのシャリだけは、先代から受け継いだ伝統の味のまま。赤酢、塩、砂糖の分量は舌で覚えている」-。若い世代は甘めのシャリを好むともいわれるが、杉山さんはあえて少し酸味の残る味付けを守る。また、ランチタイムのシャリは、夜に比べ大きめに握るそうだ。「にぎりだけで満腹になってほしいから」-
そして、いよいよ杉山さんの匠の技が炸裂する「握り」を迎える。①両手に酢水を軽く付けて湿らせる②右手でシャリを楕円形に丸める③左手にネタを置く④右手の人差し指でワサビをネタの真ん中に塗る⑤左手のネタにシャリを乗せて軽く握る⑥右手を使ってネタ・シャリ一体で180度回転させる⑦上になったネタを軽く押さえて出来上がり。
筆者も握らせていただいたが、米粒が手の平に飛び散ってしまう。一応握れるようにはなったが、シャリの表面に凸凹が出来てしまう。握りに時間がかかると、マグロの艶が消えてしまう。もちろん、杉山さんのにぎりはシャリの表面が滑らかであり、マグロは食欲をそそる艶を発していた。こうした匠の技によって、にぎりを口に入れた瞬間、シャリは程よくほどけ、それを合図にネタの旨みが口の中全体に広がり始める。
杉山さんの美学では、「寿司」=「シャリとネタの一体感」になる。この秘伝の一体感こそが、150年の伝統を支えてきた。それを守り、次世代にバトンを渡すため、杉山さんは戦い続ける。
蛇の目鮨本店
東京都中央区新富1-7-9
電話:03-3551-0334
(写真) 小笹 泰 PENTAX K-50等使用
竹内 典子