2021年05月27日
社会・生活
企画室
牧野 智子
昨年来、コロナ禍で在宅勤務が続く中、「愛の不時着」(原作・制作イ・ジョンヒョ、パク・ジウン、2019年)という言葉を聞かない日はなかった。と思うほど、あまりにも耳にするので調べ始める。すると、米ネットフリックスが有料配信する韓流ドラマだと判明。「無料で観られないなら...」と放っておいた。
「愛の不時着 完全版 上」(パク・ジウン著、宝島社、2020年)
(出所)版元ドットコム
ところがある日、バス会社を経営する友人から「愛の不時着、観た?(コリアンタウンのある東京)新大久保への韓流満喫ツアーを企画するから、おいでよ」と誘われた。「これはまずい、観ていないと話に付いていけないぞ」―。渋々ながらネットフリックスに登録し、早速第1話から鑑賞を始めた。
しかし、第2話の途中まではあまり面白く感じられず、「もう止めよう」と思った次の瞬間、「あれっ、面白いじゃない!」と全身に衝撃が走った。あれよ、あれよと言う間にドラマの世界に引きずり込まれ、何度も号泣しながら一気に最終の第16話まで。そして再び第1話に戻り、結局5巡もしてしまう。そして今、このコラムを書くために6巡目に突入した。
ネットフリックス公式サイトからあらすじを紹介すると、パラグライダー中に思わぬ事故に巻き込まれ、北朝鮮に不時着してしまった韓国の財閥令嬢。そこで出会った堅物の将校の家で、身分を隠して暮らすことになるが...。「韓国の女性と北朝鮮の将校の間に芽生えたロマンスを、ヒョンビンとソン・イェジンという2大スターを主演に迎えて描く」という韓流ドラマだ。
北朝鮮の第5中隊メンバーは、令嬢を韓国に帰そうとさまざまな方法を試すが、失敗を重ねる。その令嬢とメンバーとのやりとりが実にユーモラスで面白い。例えば庭に穴を掘るシーンでは、令嬢がなぜ掘っているのかと尋ねると、メンバーは「無礼な南朝鮮の女を埋めるのさ!」と皮肉一杯にからかう。実際は地下水の工事のための穴掘りだったのだが...
奇想天外なフィクションとはいえ、ドラマを観ながら南北分断が続く朝鮮半島の現実に思いを馳せないわけにはいかなかった。気が付くと、心の中で「南と北はなぜ統一できないんだろう」と何度も叫んでいた。また、「どうして男女の愛が政治に切り裂かれなくてはならないのか」と考えると、胸が締め付けられた。
日本のドラマには現実を舞台にするものが大半だが、韓国には非現実的で奇想天外なストーリーが多い。「愛の不時着」も北朝鮮への不時着という、まずあり得ない設定である。だが、非現実的なドラマを作るからこそ、ディテールに徹底的にこだわるのが韓流ドラマの真骨頂。細部にも決して手を抜くまいという制作スタッフの執念が、ドラマ全編から伝わって来るのだ。それが観る者の心を揺さぶり、涙腺を刺激する。
実際、このドラマの制作陣は北朝鮮出身者を補助作家に置き、脱北者への緻密なインタビューを繰り返した上で、リアリティ満載で北朝鮮を描写する。それが話題となり、世界中に拡散したわけだ。例えば、村で電気が止まった時には、家の中で自転車を漕いで自家発電を行い、テレビを観るシーンがある。ほかにも、日本では考えられない光景がいくつも飛び出し、それぞれが説得力のあるディテールを備えている。
対照的に、今の日本のドラマにはディテールへの執着心が弱いように感じる。だからリアリティが乏しくなり、現実を描いているはずが浮世離れしてしまう。だから、「愛の不時着」のように何度も繰り返し見たいという気が起こらない。
だが、かつては日本のドラマにも厚みがあり、確かな同時代性が感じられた。だからこそ、社会の話題の中心にもなり得たと思うのだが...。ドラマ制作に限らず、日本の産業界全体がコスト削減を優先するあまり、細部にこだわる余裕を失ったようにも見える。それで消費者に感動を与えるモノ・サービスが生まれるのだろうか。
できることなら、筆者は「愛の不時着」を鑑賞した記憶をすべて消去したい。そして、初めて観た時のあの衝撃をもう一度味わいたい。感動を超えて衝撃を与えてくれるドラマや映画には、これからいくつ巡り合えるだろうか。
牧野 智子