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デジタルにはない「紙」の価値とは?

=酒井邦嘉東大大学院教授「紙の手帳の脳科学的効用」=

2021年07月09日

社会・生活

研究員
河内 康高

 「紙離れ」が続いている。経済産業省が先に公表した「生産動態統計調査」によれば、新聞巻取紙(=新聞用紙)、印刷・情報用紙、包装用紙、衛生用紙、雑種紙を合計した「紙」の2020年販売数量は前年比14%減の1120万トンに落ち込んだ。一方、段ボール原紙は前年比1%増の910万トンと底堅い。コロナ禍で宅配便需要の拡大が下支えしたようだ。

 紙の中でも、新聞用紙は前年比13%減の209万トン。ピークだった2007年の380万トンから、13年間でほぼ半減した。インターネット全盛でスマートフォンやタブレットからニュースを簡単に見られるようになり、「新聞離れ」には歯止めが掛からない。

 また、オフィスなどで印刷に使われる「情報用紙」は前年比12%減の104万トン。リーマン・ショックの影響で落ち込んだ2009年以降、ほぼ横ばいで推移していたが、コロナ禍で大幅に減少した。在宅勤務を主体とするリモートワークが急速に普及し、オフィスでの需要急減が響いたとみられる。

新聞・情報用紙と段ボール原紙の販売数量

210705_0.jpg(出所)経済産業省「生産動態統計調査」を基に筆者

コロナ禍で在宅勤務を続けていると...

 コロナ禍で1年以上、ほぼ毎日在宅勤務を続けてきた筆者も、紙の使用機会が減ったと実感する。その要因として、①自宅にそもそもプリンターが無かったり、筆者宅のプリンターのように印字速度が遅かったり、紙に印刷することが億劫になってしまう②上司や同僚と打ち合わせをする際、TeamsやZoomといったウェブ会議システムの活用が標準になり、資料を簡単に画面共有できる。結果、紙に印刷する必要性が低下した―などが挙げられる。

 紙のデータがデジタル化されると、狭い自宅でも場所を取らずに資料が保管できるし、データの編集も容易だ。遠く離れた同僚とデータの共有もできる。一度これを経験してしまうと、「意外と紙がなくても仕事ができちゃうな」となり、紙の出番はますます減ってしまう。

 しかし、業務内容によっては「紙の良さ」を再認識するケースも少なくない。例えば、筆者は打ち合わせ資料の重要なポイントを記憶する際、紙に書いたり、ラインマーカーを引いたりする。パソコン画面とにらめっこを続けても、一向に頭に入って来ないからだ。

 また、コラムの構成を考える時にも、思いついたことを紙に書き出してみる。経験上、そのほうが考えはまとまりやすく、新たなアイデアも浮かぶことが多い...。と「なんとなく」感じるからだ。「記憶」や「発想」が必要とされる場面では、筆者のようにあえて紙を使うという人は結構多いのではないだろうか。

紙の効用「なんとなく」を明らかにした最新研究

 実は最近、この「なんとなく」感じていた紙の効用を裏付ける研究結果を見つけた。2021年3月、脳の機能から紙の価値を論考する東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻の酒井邦嘉教授が、日本能率協会マネジメントセンター(本社東京都中央区)やNTTデータ経営研究所(同千代田区)との共同研究で「紙の手帳の脳科学的効用について~使用するメディアによって記憶力や脳活動に差~」を発表したのだ。

 酒井教授らは、18~29歳の被験者48人を「紙の手帳」「スマホ」「タブレット」に分け、全員に架空のスケジュールを記録させた。その後、被験者が内容を思い出し、スケジュールに関する問題に解答するという実験を行った。なお、事前に被験者には「スケジュールを覚える」という実験内容を伝えず、自然な記銘(=記憶の定着)を実現した。

 その結果、紙の手帳の被験者は他のグループよりも、短時間でスケジュールの書き留め(=記銘)を終えた。ところが、記銘した内容に関する想起課題の正答率には3つのグループ間で有意な差が見られない。つまり、紙の手帳のグループは短時間で要領よく記銘できたのだ。また、より簡単な設問(例えば「図書館に参考文献を受け取りに行くのは何時?」など)の成績では、紙の手帳のほうがタブレットよりも高いという結果が示された。

 酒井教授らは、実験中の被験者の脳活動をfMRI(機能的磁気共鳴画像法)で測定。すると、言語処理に関連した「運動前野外側部」や、記憶処理に関係する「海馬」などの脳領域の活動は、紙の手帳を使ったほうが高いことが判明した。こうした実験結果から酒井教授らは、紙媒体が記憶の定着に有利なことに加え、それを元にした新しい思考や創造的な発想に対しても役立つと言えるだろうと結論づけた。

 では、なぜこのような結果が出たのか。酒井教授らはその理由として、紙には「想起の手掛かり」が豊富であることを指摘する。紙の教科書やノートを使って学習する際、そこに書かれた文字情報だけでなく、紙上の文字の場所や、その文字と書き込みの位置関係といった視覚情報を、同時に関連付けて記憶する「連合学習」が生じているという。一方、スマホやタブレットでは、画面と文字情報の位置関係が一定ではなく、各ページの手掛かりも乏しいため、文字と空間的な情報を関連付けて記憶することが困難になるという。


インタビュー

 この最新の研究結果が示すように、やはり紙には独特な効用がありそうだ。今回、研究を主導した酒井教授にリモート取材し、デジタルにはない紙の効用について聞いた。

写真(提供)酒井 邦嘉氏

 酒井 邦嘉氏(さかい・くによし)
 東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻教授
 1964年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科博士課程修了後、同大医学部助手、米ハーバード大医学部リサーチフェロー、米マサチューセッツ工科大学客員研究員を経て、1997年東京大学大学院総合文化研究科助教授・准教授。2012年から現職。専門は言語脳科学、脳機能イメージング。主な著書に「言語の脳科学」(中公新書)、「科学という考え方」(中公新書)、「脳の言語地図」(明治書院)、「脳を創る読書」(実業之日本社)、「芸術を創る脳」(東京大学出版会)、「チョムスキーと言語脳科学」(集英社インターナショナル)など。

図表チョムスキーと言語脳科学」(集英社インターナショナル)
(出所)版元ドットコム

 ―紙には「想起の手掛かり」が豊富にあるということです。視覚以外、触覚や聴覚などへの刺激も人間の記憶に影響を与えるのでしょうか。

 触覚や聴覚、嗅覚などの五感へ働きかける刺激はすべて、記憶を呼び起こす手掛かりになります。特に触覚は分かりやすいでしょう。例えば紙の本の場合、ハードカバーかペーパーバックかによって、質感や重さが変わります。ページをめくる際、指で感じる「厚み」で全体のどの辺りを読んでいるのかを把握できます。読み返したいページを探す時、大体の厚みの感触で開くと、そのページがピタッと出てくることがあります。それは指の感触や視覚的な手掛かりなどでページの場所を記憶しているからです。紙の本の持つ(何度も開いたり閉じたりすると形が変わるという)形状記憶も関係しているでしょう。

 一方で、電子書籍をタブレットで読む場合には、分厚い辞書でも薄いパンフレットでも同じ質感や重さになります。ページめくりもスクロールバーを使って行うため、厚みの感覚がありません。こういった点からも、紙とデジタルの間には大きな違いがあると分かるでしょう。

 また聴覚に関していえば、わたしたちは紙をパラパラめくる音や紙同士が擦れる音などを無意識に聞いています。嗅覚も同様で、インクの匂いや古本が醸し出す独特な匂いが脳への刺激となります。紙には記憶を呼び起こす手掛かりとなる刺激が豊富にあり、そういった刺激が多ければ多いほど記憶に残りやすいのです。

 ―今回の実験で、日常のスケジュールを覚える時のような「自然な記銘」では紙のほうの効果が大きいことが明らかになりました。学校や自宅での学習でも、紙のほうが効果的に記憶できますか。

 実験では、あえて「覚えてください」と言わないようにしました。というのも短時間の実験のため、意図的に記憶した場合には差が出にくいと考えたからです。これに対し、実際の学校や自宅での学習は長期間に及びます。長期間になればなるほど、自然な記銘(=記憶の定着)の効果が蓄積されますから、紙の力が発揮されるでしょう。

 前述したように、紙には想起の手掛かりとなる刺激が豊富にあります。さらに、自分で書き込みしたり付箋を貼ったりなど、手掛かりをどんどん追加することもできます。自分で手を動かして手掛かりを増やすことで、記憶はどんどん強固になり、時間が経っても忘れなくなります。

 ―何かを発想する時、紙を使うほうがアイデアは浮かぶような気がします。脳の活動に影響を与えているのでしょうか。

 実は、人間の脳は無意識でマルチタスク処理をしています。一方で、意識的な過程はシングルタスクなので、同時に2つのことを考えられません。

 アイデアが浮かぶ時には、無意識のマルチタスクでさまざまな事柄を関連付けながら、発想しています。アイデアを生み出したいなら、「静かな場所で一人きり」で思案するより、脳がマルチタスクを迫られる状況に追い込むほうが理に適っています。例えば、たくさんの人と話しながらポイントをまとめてメモを取るという作業では、「聴く」「理解する」「書く」(の同時進行)という非常に高度なマルチタスクを行っているのです。

 ところが、一人で考えをまとめる時、紙はマルチタスクを支援してくれるツールになります。自由に書き込むことができるし、何枚もの紙を一覧で見ることもできる。変形させたり、切り貼りしたりも可能です。逆にパソコン画面上では、クリックするたびに思考が寸断されてしまい、どうしてもシングルタスクになってしまいがちです。画面をずっと見ていても、煮詰まってしまうことが多くなります。

 ―紙とデジタルをうまく使い分けるポイントを教えてください。

 紙には、「五感に訴えかける」という特性があります。それを活かして思いつくままに書き込んだり、いろんな色の付箋をつけてみたり、資料を切り貼りして再編集したり...。そういうことを繰り返すことで発想を豊かにできます。

 書籍の中で初めて電子化されたのは辞書ですが、語学には紙の辞書をお勧めします。今は英和辞典などをスマホで気軽に使えますから、紙の辞書を使う人は少ないですけど...

 でも、紙の辞書には利点があるのです。確かにスマホに比べて検索効率は落ちますが、見開きのページには相当な情報量があります。ある単語を調べると、その例文やイディオムまで一覧できるため、自分が必要とする情報に素早くたどり着けます。スマホの電子辞書の場合、単語のページまでは早く着いても、目的の情報に行き着くまでにスクロールし過ぎたり見落としたりと、意外に時間がかかるのです。

 「だまされた」と思って紙の辞書を使ってみてください。単語だけでなく例文までよく覚えられるし、慣れれば「この単語はこの辺りにある」とパッと引けたり、調べた単語の前後の項目まで頭の中に入ったりします。結局、紙の辞書のほうが記憶に残りやすく学習が進むのです。

 もちろん、デジタルにもメリットはあります。電子辞書は正確な発音を音声で確認できますし、電子書籍といった他のメディアとの連携という面では素晴らしいものがあります。

 また、研究論文をはじめ最終的なレイアウトを綺麗にまとめる時や、微調整したい時にもデジタルが向いています。紙とデジタルそれぞれの特性を理解した上で、使い分けていくのが最善でしょう。

河内 康高

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