2021年10月08日
社会・生活
研究員
竹内 典子
無限に上ることができるループ状階段、水が循環して永遠に落ち続ける滝...。「視覚の魔術師」と称される、オランダの画家エッシャーは「だまし絵」を数多く描き、現実にはありえない不思議な世界を追求した。このだまし絵を3次元(立体)で実現する手法があると知り、その第一人者である明治大学の杉原厚吉研究特別教授にオンラインで取材。エッシャーが活用した「錯視」について易しく解説していただいた。
オンライン取材を受ける杉原教授
(写真)筆者
杉原 厚吉氏(すぎはら・こうきち) |
「錯視」とは目の錯覚のこと。モノが実際とは異なる大きさや色などに見える現象である。例えば「ジャストロー錯視」は大きさについての錯視。次の写真Ⅰを見て、どちらのバナナが長いと感じるだろうか。
Bと答える人が多いが、実は2本の長さはほぼ同じ。次に上下を入れ替えた写真Ⅱでは、Aのほうが長く見える。並べ方を変えるだけで、人間の目は簡単にだまされてしまうのだ。
ジャストロー錯視
(写真)筆者
下の2枚のイラストでは、中央の小さな四角は同じ灰色。それなのに、右の黒で囲まれたほうが明るく見える人が多い。これが「明るさの錯視」である。
明るさの錯視
(出所)筆者
下のイラストは「ペンローズの無限階段」と呼ばれるもの。「奥行きの錯視」を利用した「不可能図形」であり、エッシャーの代表作「上昇と下降」の素材になったとされる。
奥行きの錯視(無限階段)
(出所)stock.adobe.com
一体、なぜ錯視が起こるのだろうか。杉原教授に尋ねると、原因は錯視の種類ごとに異なり、中には未解明のものもあるという。
人がモノを見る時、まず眼球の奥にある網膜に画像が映し出される。脳はこの情報を受け取り、目の前の状況を判断する。問題は、現実の世界が3次元の広がりを持つのに対し、網膜に映る画像は2次元であり奥行きがないことだ。
そこで、脳は奥行きの情報を画像から「解釈」することになる。この瞬間、ミスが起こるのだ。杉原教授は「人間の脳は経験や先入観に基づき特定の立体を思い浮かべ、当てはめてしまう」とその理由を説明する。
解釈のパターンにはいくつかあるが、脳は可能性が高そうなものを瞬時に選んで「決め打ち」する。その際に間違ったパターンを選ぶと、錯視が起こってしまうのだ。
人がモノを見る時のイメージ図
(提供)杉原厚吉・明治大学研究特別教授
例えば先述したバナナのジャストロー錯視では、脳がその長さを判断する際、比較する部分を間違えて選ぶことで起きる。こうした「間違え方のパターン」を理解すれば、2次元の絵だけでなく、3次元の立体でも意図的に錯視を引き起こすことができるという。
実際、杉原教授は錯視を利用しながら、不思議で面白い立体作品を次々に発表している。
八海山麓スキー場(新潟県南魚沼市)で制作した「雪の反重力すべり台」はその一つだ。下の写真では、子どもが重力に逆らい、雪の斜面をソリで「滑り登って」いるように見える(注=赤色の楕円部分)。
18メートル離れた7.3メートルの高台から、このすべり台を見下ろすのがミソ。この角度から見た時だけ、「だまし絵」になるよう設計されているのだ。杉原教授自身が考案した「重力に逆らって坂を駆け上がる球」という作品を元に作られた。
雪の反重力すべり台
(提供)杉原厚吉・明治大学研究特別教授
杉原教授が生み出す作品の特徴は、その設計に数理的アプローチを導入した点にある。
従来、錯視の研究は心理学や認知科学の分野で主に行われてきた。このため、「錯視はなぜ起こるのか」に関心が集中するあまり、「どうすれば狙い通りに錯視を起こせるか」という工学的な発想に乏しかった。
これに対し、杉原教授は錯視を引き起こす図形を、方程式を解くことで制作する方法を編み出したのだ。
そもそも、杉原教授が錯視の世界に引き込まれたきっかけは、「ロボットの目」の開発に携わったこと。ロボットはカメラで撮影した画像のデータを、コンピューターで処理することで周囲の状況を判断する。コンピューターに2次元画像や3次元立体を認識させる技術を研究するうち、「だまし絵の中には、実際に立体として作れるものがある」と気づいたという。
そこから、杉原教授の挑戦が始まった。「180度回転させたはずなのに、右にしか向かない矢印」「鏡に映すと四角柱に見える円柱」...。アイデアが浮かんでは方程式を解き、設計図を描き続けた。
2010年、杉原教授が国際的な錯視コンテスト「The Best Illusion of the Year Contest」に初めて出品すると、たちまち評判になった。以後、優勝4回、準優勝2回に輝く。
2020年にも、「立体版シュレーダー階段図形」で優勝した。見る角度を変えることで、斜め上から見下ろしているようにも、斜め下から見上げているようにも感じられる不思議な階段。ドイツの自然科学者シュレーダーが1858年に発表した絵に、手すりを付けて立体化したものだ。
「あえて150年以上前の絵を題材にしました」と杉原教授。「シュレーダーの絵」自体は錯視の専門家の間ではよく知られた存在。だが、「『2次元だから錯視が起こる』という思い込みがある。それを立体化したら、みんな驚くのではないか」と考えたという。
「これまでもう新しい原理は見つからないだろうと何度も思いました。でも、作った作品を眺めていると、また新しい原理に気づかされるんです」―。杉原教授の目がキラキラと輝く。
数理的アプローチによって錯視を生み出す、杉原教授の研究は意外なところでも役立っていた。
京浜急行電鉄は2019年1月、同教授のアドバイスを基に、羽田空港国際線ターミナル駅に新しい案内表示を設置。ホーム行きエレベーターの場所を示す案内板が、床から浮かび上がって見えるようにした。その手前には、矢印の形をした大きな穴の絵を描いた。
錯視によって、床面の表示が立体的に見える案内板
(提供)京浜急行電鉄
左下の写真では、錯視によって平面の絵が立体的に見えるので人目を引く。これは人間の脳が直角を好むため、平行四辺形(=写真の「ホーム行き」)を見ても、「長方形を斜めから見ている」と思い込む脳の性質を利用しているという。
錯視の危険性に気づいていれば、交通事故が発生しやすい場所を特定し、対策を講じることも可能になる。例えば、長い直線道路の手前が急な下り坂で、その途中から緩い下り坂に変わっていると、錯視によってそれが上り坂のように見えてしまう。そう思い込んでアクセルを踏み込むと速度オーバーになり、事故につながりかねない。
こうした場所にはドライバーに注意を促す標識の設置が望ましい。新たに道路を設計する際、杉原教授は「錯視が起こりやすい構造を理解することが重要です」と強調する。
道路の先が空につながって見える「天に昇る道」(北海道・知床半島)
(イメージ写真)中野哲也
もう1つ、杉原教授が期待しているのが数学教育への応用。「高校までの数学は現実社会で何の役に立つのかイメージしにくい。それが数学嫌いや理系離れを生んでいるのではないか」と危惧するからだ。
実際には、身の回りの現象を理解するのに数学は欠かせない道具。「例えば、わたしが錯視を起こす立体を作りたいと思ったら、それを表す方程式を見つけます。その上でプログラムを書き、コンピューターに計算させるのです」―。
それには高校までの数学で必ず習う連立1次方程式などが含まれる。数学を使って新たな原理を発見する「楽しさ」を若い世代に伝えるため、高校などに出向いて授業を行うこともあるという。
とはいえ、素人が自分で立体錯視の設計をするのは難しい。手軽に体験する方法はないものか。実は、杉原教授が考案した作品のキットが書店などで販売されている。
鏡のトリック立体キットBOOK(永岡書店)
(出所)版元ドットコム
筆者もキットを購入し、「逆を向く階段」を作ってみた。台紙を切り抜き、組み立てるだけ。わずか数分で完成した。この階段の一番下の段に赤いコーンを置き、鏡に映すとアラ不思議。鏡の中でコーンが最上段に移動しているのだ。
実はこの階段、段差があるわけではない。段々に見える部分は、平面に描かれた「絵」なのだ。錯視によって水平に置いた絵が立体に見える時、反対側からは高さが逆転して見える原理を応用した作品だという。
インターネット上に偽メールや誇大広告が氾濫し、だまされないよう細心の注意を求められる時代になった。でも立体錯視では、だまされるのが楽しい。コロナ禍の秋、そんな不思議な世界を体験してみてはいかがだろうか。
逆を向く階段
(注)奥にある鏡に映すとコーンの位置が上に移動したように見える
(写真)筆者
■参考文献
杉原厚吉:新錯視図鑑、誠文堂新光社、2018
同:鏡のトリック立体キットBOOK、永岡書店、2021
■参考情報
明治大学・杉原教授のホームページに自主講座「立体錯視の世界」開設。講座は1回約15分の動画で無料。
http://www.isc.meiji.ac.jp/~kokichis/3Dillusionworld/3Dillusionworldj.html
竹内 典子