2024年05月22日
社会・生活
研究員
榎 浩規
デジタルツールの普及により、文字の読み書きに対する向き合い方が変わりつつある。その影響か、特に子供の漢字習得に支障が出ており、書字能力の不足も指摘されている。手書きの手紙やメモは脳の活性化と記憶の強化に寄与し、基本的なコミュニケーションスキルの獲得にも寄与するとされる。古(いにしえ)から親しまれてきたアナログな手法の活用も一理あるのではないか。
私は嫌いなことの第5位が文字を書くことである。カード支払いでサインを書くことすらおっくうで、字が汚いと自覚している。鉛筆を使う機会の多かった学生時代、「美しい字」と言われたことは一度も無い。
その一方で両親に数十回、小学校の担任に通算5回、高校時代には予備校の窓口で初対面の担当者に「汚い字」と言われた。再び会わない人にどう思われようと構わないという気持ちもあるが、自分の名前すら上手に書けないという自責の念に今でもかられる。
手書きでメモを取った際、100字のうち4文字程度は書いた本人ですら読めない。それが大事な情報であった時、「スマートフォンに頼ればよかったのに」と後悔する。
デジタル化が進む中、手書きする機会は減りつつあり、その必要性が薄れているとも思う。しかし、学校教育では書写が授業で必ず行われている。
書き取りをする小学生(イメージ)
学習指導要領に基づく、教育出版社の教科書編集趣意書(注1)は書写について、①「書く力」が身に付く②「学び方」がわかる③「書き方のこつ」「伝え合う楽しさ」を知る―の3点を明記しているのだが、京都大学と日本漢字能力検定協会の共同研究によると、日本の子供の6~7%が漢字の習得に困難を抱えている。習得の難しさと、その要因を分析した上で教育ストラテジーを立てる必要がありそうだ。
漢字の習得が簡単とは言い難いが、学ぶことの効用は小さくない。京都大学医学部付属病院精神科神経科の大塚貞男特定助教(論文発表当時)、同大学医学研究科の村井俊哉教授は「多面的日本語読み書き能力の認知基盤と高度な言語スキルに及ぼす影響」という研究で、手で書く動作が言語・認知能力を発達させると指摘。その上で、文字の読み書きがキーボード操作やクリックに取って代わられ、小学生の言語習得に悪影響が出ていると警鐘を鳴らしている。(注2)
さらに大塚助教、村井教授は「日本語の漢字能力の多面性」に関する研究(注3)で、漢字能力は読字(読む)、書字(書く)、意味理解の三つの側面で構成されるとした上で、「書く」ことの習得だけが「文章作成能力」と関連していると結論付けた。
この成果から、幼年期からのパソコンなどデジタルデバイスの利用が漢字の習得に抑制的な影響を与えた場合、さまざまな認知能力の発達にまで影響が出る可能性を示している。ICT教育は読字・書字、文章作成能力の面からいったん立ち止まって、その進め方を改めて考えてみるべきかもしれない。
若年期の文章作成能力は、晩年における認知症とも関係があるとされる。米国ケンタッキー大学サンダース・ブラウン老年期研究センター のデヴィッド・スノードン教授(疫学)がノートルダム修道女会の修道女678人の若年期から晩年までの認知能力について、文章の言語的な複雑さを得点化した指標「意味密度」(注4)を用いて長期的に分析・研究。(注5)修道女の若い頃の日記や自叙伝を言語学的に解析して認知機能を推定、晩年期の認知機能にどう影響するかを調べた。
その結果、20代前半に「意味密度」が高かった修道女は70~80代における「認知予備能」(注6)が高く、晩年まで健全な認知能力を維持していたことが示されている。
⼿書きは脳活動にも関係するのではないか。ノルウェー科学技術⼤学(NTNU)⼼理学部の研究チームは、平均11.83歳の学童12⼈と平均23.58歳の若者12⼈を対象に教室での学習を促進し最適化するためには、⼿書き、タイピング、描画のどのやり⽅が有益か調査。具体的には、同じ単語を①筆記体で⼿書き②キーボードでタイピング③単語を表す絵を描画―のそれぞれについて、脳の電気的活動を追跡・記録した。
それによると、学童・若者とも脳活動はタイピングしている時よりも手書きしている時のほうが活発だった。単にキーボードのキーを押す時と違い、手で文字を書いたり、絵を描いたりすると、脳内に微弱電流「シータ波」が見られた。シータ波は新しいものを見たり、思索したりする際に生じ、作業記憶の能力と関係している。
脳内の神経細胞(イメージ)
研究論文の責任著者でNTNUのオードリー・バンデルメーア教授(発達神経心理学)は「ペンと紙を使うことで、記憶に結び付く『フック』がより多く脳に与えられる」と分析している。「ペンで紙を押し付けたり、手書きした自分の文字を見たり、手書きしている最中の音を聞いたりすることで、多くの感覚が活性化され、これらの感覚経験が脳のさまざまな領域との接点を生み出し、学習のために脳を開放する。このような作用によって、よりよく学び、より記憶できる。キーボードの場合、そのような脳の活性化パターンは見つからなかった」という。(注7)
また、東京工科大学メディア学部の中村太戯留助教(論文発表当時)らがMRI(磁気共鳴画像装置)を使って手書きと活字認識の差に関して脳活動を調べたところ、ワープロで編集した活字よりも手書き文字の方が脳の活動部位が広かった。「手書き文字に含まれるひずみや擦れといったノイズ要素が活字を見ている時と比べて脳の活動部位が広がり、記憶パフォーマンスの向上に寄与している」と分析している。
手書きは入力速度が比較的遅いため内容を要約しながら記す必要があり、記憶に対してプラスに働く可能性がある。「PCなどにタイピングする場合と比べて、その内容が記憶されやすい」という。手書きの際の皮膚感覚、運動感覚、感情要素の処理が記憶パフォーマンスの向上に役立つ可能性が示されている。(注8)
字が下手な私ではあるが、手書きをすれば文章作成能力が上がり、認知症の予防にも効果があると聞けば、考えが変わってくるというもの。脳が活性化して記憶の向上にもつながるならば、これからは下手な字を人前で堂々と書いてみようかと思う。
(注1)教科書編修趣意書は、教科書の編修上特に意を用いた点や特色などを教育基本法や学習指導要領等に照らして分かりやすく説明することによって、編修の趣旨や基本方針などを示したものである。(文部科学省ホムページ<https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/tenji/1364484.htm>より抜粋)
(注2)Otsuka, S., Murai, T. Cognitive underpinnings of multidimensional Japanese literacy and its impact on higher-level language skills. Sci Rep 11, 2190 (2021).
(注3)Otsuka, S., Murai, T. The multidimensionality of Japanese kanji abilities. Sci Rep 10, 3039 (2020).
(注4)文章の言語的な複雑さを得点化した指標。文章中の単語数に対する動詞、形容詞、形容動詞、前置詞、接続詞の数を比率算出した値。
(注5)Snowdon DA, Greiner LH, Mortimer JA, et al. Brain infarction and the clinical expression of Alzheimer disease. The Nun Study. JAMA 1997; 277: 813-817.
(注6)病前に高い認知機能を持つ者は、失われた神経細胞の働きを補完でき、認知症を発症した場合も認知症症状の程度を抑制できると考えられている。(日本漢字能力検定協会ホムページ<https://www.kanken.or.jp/project/investigation/project/life_cycle.html>より抜粋)
(注7)Ose Askvik E, van der Weel FR and van der Meer ALH (2020) The Importance of Cursive Handwriting Over Typewriting for Learning in the Classroom: A High-Density EEG Study of 12-Year-Old Children and Young Adults. Front. Psychol. 11:1810. doi: 10.3389/fpsyg.2020.01810
(注8)中村太戯留、田中茂、,田丸恵理子、上林憲行(2009)、「手書き文字と活字の認識の差に関するfMRI研究-ノイズ要素の分離の試み-」、日本認知科学会第26回大会,pp.176-177.
榎 浩規